元プロレスラーで天龍源一郎との名コンビ「龍原砲」で人気を集めた阿修羅原さん(本名・原進)が28日午前5時15分、肺炎のため長崎県雲仙市の病院で死去した。68歳。原さんは、ラグビーの元日本代表からレスラーに転身。国際プロレス、全日本プロレスなどで活躍し、94年に現役引退した。通夜は29日午後7時から、葬儀・告別式は30日午後1時から、諫早市のJAながさき県央協同社小野斎場で。喪主は妹の山田咲子(やまだ・さきこ)さん。

 原さんは、プロレス引退後、故郷の森山町(現諫早市)に戻り、母校・諫早農高ラグビー部のコーチとして後輩の指導にあたっていた。しかし、体調を崩して約10年前からは雲仙市内の病院で療養。最近になって容体が悪化し、意識不明の状態が続いていた。最期は同市内の病院で亡くなった。

 原さんはラグビー日本代表キャップ16の活躍を買われ、77年11月に国際プロレスにスカウトされた。翌年12月、海外武者修行から帰国すると、ラグビーファンの作家・野坂昭如氏から、「阿修羅原」のリングネームを付けてもらうなどファンの期待も高かった。

 レスラーとしての芽が出たのは、全日本に移籍し、87年に天龍源一郎と「天龍同盟」を結成してから。国際から移籍直後に、天龍とのシングルマッチを見た馬場さんから、所属選手になるよう勧められた。長州力らジャパンプロレス勢が離脱した全日本マットを、2人のコンビ「龍原砲」が盛り上げ、87年9月にPWF世界タッグ王座を獲得するなど、一時代を築いた。

 また、新日本から全日本に戻ったスタン・ハンセンの復帰戦の相手を務めたことで評価を高め、ハンセンとも名勝負を繰り広げた。ハンセンのラリアットを何度も受けたことで、自身もヒットマン・ラリアットを決め技にした。雪崩式ブレーンバスターを日本人として初めて使ったことでも有名。

 レスラーとして非凡だったが、素行に問題もあった。地元・諫早での全日本興行に穴をあけ、馬場さんの怒りを買い84年に一時団体を離脱。85年にフリーとして復帰したが、借金取りが会場に押しかける騒ぎを起こし、88年に全日本を解雇された。

 全日本解雇後、盟友の天龍に請われて91年にSWSのリングに上がったが94年引退。01年5月のFMWで、天龍と故冬木弘道さんの一騎打ちの特別レフェリーを務めたのが、ファンへ見せた最後の姿となった。全日本時代の先輩グレート小鹿は「昭和のにおいを持っていながら、先を読むような現代的なプロレスを模索していた。人とうち解けない武骨な男だったが、自分で突っ走って、みんなを引っ張っていった。若いのに、残念です」と突然の訃報に驚いていた。

 ◆阿修羅原(あしゅらはら)本名・原進。1947年(昭22)1月8日、長崎県北高来郡森山町(現諫早市)生まれ。諫早農高-東洋大-近鉄とラグビーで活躍。プロップとして日本代表キャップ16で、76年には日本人初の世界選抜メンバー入り。78年6月に国際でプロレスデビュー。81年に国際が解散し、全日本に移籍。88年に解雇され、91年にSWSで復帰。94年10月に引退した。現役時代は183センチ、125キロ。