ボクシング元WBC世界スーパーバンタム級王者ロイヤル小林さん(本名小林和男)が、11月17日に亡くなっていた。71歳。8日に明らかになった。故郷熊本県内の病院で、食道がんのために亡くなった。家族葬を済ませた。

パンチパーマにひげの風貌、左右フックの強打で「KO仕掛け人」と呼ばれた。76年に2度目の世界挑戦で世界王座を獲得した。大卒、五輪代表から日本人初の世界王者だった。

小林さんは拓大卒業後に自体校でボクシングを始めた。72年ミュンヘン五輪代表となり、ベスト8で6位入賞。34勝(28KO)3敗とアマでは驚異のKO率8割超えで、73年に国際ジムからプロデビューした。

75年に18連勝(16KO)で世界初挑戦は5回KO負け。76年の世界再挑戦は1階級下げた。「金はいらない、水はほしい」とうめきながら減量に耐えた。

WBC世界同級王者リゴベルト・リアスコ(パナマ)を2度ダウンさせ、8回KOで王座奪取した。日本人の世界戦連敗を9で阻み、11年ぶりの王者不在にも終止符を打った。

初防衛戦は敵地ソウルで、11月も暖房のない控室で震えて待機した。初回から逃げまくる廉東均(韓国)に判定負けし、在位46日は現在も日本人最短となっている。

世界初挑戦の相手は、ニカラグアの貴公子と呼ばれたWBAフェザー級王者アレクシス・アルゲリョに完敗した。アルゲリョは後に世界で6人目の3階級制覇の名王者となった。

陥落後も世界最多タイの17連続KO防衛したWBCスーパーバンタム級王者ウイフレド・ゴメス(プエルトリコ)に3回KO、フェザー級で最多19度防衛したWBA同級王者エウセビオ・ペドロサ(パナマ)に13回KO負け。名だたる王者に勇気を持って挑んだ。

その後は東洋太平洋同級王座を獲得した。7度防衛しながら、5度目の世界挑戦を狙っていたが、81年に陥落して引退した。166センチの右ファイター。プロ戦績は43戦35勝(27KO)8敗。

引退後は複数のジムでトレーナーを務めた。横浜光ジムの石井一太郎会長と世界挑戦経験ある赤穂亮は最後の教え子。石井会長は入門後に関会長から「こいつパンチがあるので」と紹介され、翌日からマンツーマンで指導を受けた。

その後に石井会長が海外修行するうちに、指導法が合わなくなった。07年に石井会長からコンビ解消を申し出て、まもなくして小林さんは帰郷したという。

石井会長は「明日から毎日来いと言われた。映画シーンのようで。最初の印象が強く残っている。とにかく頑固な人だった」と振り返る。

8月の豪雨時に心配して電話したが変わりはなかったという。「ぼくのほとんどは小林さんの指導のおかげ。ボクから引いたので、今でも申し訳ない気持ち」と話していた。