1991年(平3)9月19日に世界王座に就いて、2カ月少しで、ボクは左目の異常に気がついた。12月に入って、大阪・関西医科大学付属病院で検査を受けた。結果は「網膜裂孔」ということだった。スクリーンの役割をする網膜に裂け目が入っているのだそうだ。当然、翌年2月に予定されていた初防衛戦は中止になり、緊急入院、手術となった。

入院当初は「ワシはなんて運の悪い男や」と嘆いたり「いや、今はたっぷり休める。これまでうまくいきすぎたから、神さんがそう甘くないと教えてくれたんや」といろんな思いが交錯した。ボクシングがやれるのか、と悩んだ。その時、また嫁のるみがボクの進むべき方向を示してくれた。「アンタがやりたいならやればいい。私や家族のためというなら迷惑や。やるか、やらんかは辰吉丈一郎の意思だけや」。これで、目が覚めた。ボクがやりたいなら、やればいいだけの話か…。行動せんと道は開けない。

ボクはその年末に退院した。その約2週間後、入れ替わるようにるみが出産のため入院した。92年1月14日、長男が誕生した。名前は岡山の父ちゃんがつけてくれた「寿希也」。ボクは家に帰ると目いっぱい世話もする。しかし、自分のボクシング生活のスタイルは変えたくなかった。

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網膜裂孔の手術を受けた辰吉は、92年4月から軽く動きだし、本格的には6月から始めた。しかし、一時は72キロまで体重が増えるなど、半年近いブランクはなかなか埋まるものではなかった。急仕上げのなか9月17日、大阪城ホールで暫定王者だったビクトル・ラバナレス(メキシコ)と統一戦を行った。辰吉は中盤から動けなくなり、タオル投入の9回TKO負け。プロ初黒星を喫し、王座から陥落した。

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ブランクもあったけど、ボクは敗因をエエかっこし過ぎたからだと思っている。「家族のため」と思ってしまったことにある。るみに「自分のためにやれ」と言われたことが、負けてわかった。「1度負けたら引退する」と公言してきただけに、撤回するのは恥ずかしかったけど、負けたままでは終われなかった。父ちゃんにも子供のころから「負けたままで家に帰ってくるな」と言われていた。自問自答を繰り返して、出てきた結論は「自分のためにやる。これは自分で決めた道やから」だった。

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辰吉の復帰戦は1993年(平5)2月11日に行われ、2回KO勝ちしリチャードソンからベルトを奪取して以来、17カ月ぶりの勝利だった。そして、紆余(うよ)曲折の末、ラバナレスと同年7月22日に再戦し、フルラウンドの壮絶な試合となり、辰吉が2-1の判定勝ちで、WBC暫定王座に返り咲いた。

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ラバナレスに勝ちはしたけど、倒せなかったので悔いは残った。次の試合は、正式王座にいる韓国の辺丁一との王座統一戦。11月25日に決まって、トレーニングを開始した直後、また左目の端に黒い虫が飛び始めた。やばい…。病院に駆けつけた。悪い予感は当たった。今度は「網膜剝離(はくり)」だった。9月22日、手術は成功したけど日本ボクシング・コミッション(JBC)は、網膜剝離を患ったボクサーのリング復帰は認めていない。ボクは事実上の引退の危機に立たされた。

網膜剝離から復帰、そして薬師寺保栄と伝説の世界戦 /辰吉連載7>>