生傷が絶えない顔でいつも座布団を抱えていた。「稀勢の里」になる前に「萩原」は、若の里(現西岩親方)の付け人。支度部屋で他の部屋の若い衆とほぼ話さず、異彩を放っていた。

 萩原は、17歳で幕下を5場所経験した。「たたき上げの星」は初のブルガリア出身力士琴欧州(しこ名は当時、現鳴戸親方)とライバルで「未来の曙貴」「将来の結びの一番」とされた。突き放せば萩原、組めば琴欧州。取組では通路奥から親方衆が顔をのぞかせた。仕切りで闘牛のようにぶるんぶるんとお尻を左右に振る姿は、迷いのない10代の象徴だった。

 十両2場所目の04年名古屋場所初日の前日。18歳の誕生日にケーキを持った写真を撮った。「笑顔で」との声に、精いっぱい応じた。その日は年と同じ18番で稽古を終えて「偶然ですよ」とはにかんだ。行動とは裏腹にしゃれたことを言わなかった。

 13年前の04年初場所後の横綱審議委員会。「若い人でいい力士は?」の問いに、北の湖理事長が萩原を挙げた。横審で17歳幕下力士の名が出るのは衝撃だった。稀勢の里になった同年九州場所直前に担当を離れたが、萩原は「稀なる勢い」を体現していた。【02~04年大相撲担当・益田一弘】