大相撲の横綱稀勢の里(30=田子ノ浦)が11日、水戸市にある第19代横綱常陸山の像の前で土俵入りを行った。大相撲を「国技」に押し上げ、その品格力量から「角聖」とまで呼ばれた同じ茨城県出身の郷土の大先輩の前で、自らも角聖に近づくことを誓った。また、同じく茨城県出身の新大関高安が最後の太刀持ち役を務めた。

 拡声器の声がかき消されるほどの人で埋まった、水戸市の街中。常陸山生誕の地に朝4時40分から訪れた人数は、やがて約3800人に上った。正午ごろ、稀勢の里は常陸山の像に向かい、魂を込めて土俵入りを行った。「大横綱であって、茨城の先輩横綱。このような機会をつくっていただいて光栄です」と感謝した。

 「角聖」と呼ばれた第19代横綱常陸山。優勝制度が確立される前から優勝相当成績を挙げ続け、1903年(明36)に横綱へ。相手に力を出させてから勝つ、まさに「横綱相撲」の手本だった。水戸藩士の家に生まれたことから相撲にも武士道を求め「力士は力だけでなく、品格を持たなくてはならない」と諭してきた。その意思こそ、明治維新の動乱で衰退した相撲を「国技」に押し上げた。現役時の07年には休場してまで渡米し、T・ルーズベルト大統領に会って相撲を広めた。110年も前の話だ。

 隔世の感はあっても、思いは同じ。大相撲の発展を考える稀勢の里にも通じるものがあった。同郷の偉人とあって「教科書にも出ていた。化粧まわしも載っていました。(歴代横綱で)身近には感じていたと思う」。土俵入りの前には墓参りにも訪れて「ちょっとレベルが違いますから遺志を継ぐとか軽はずみな発言はできないが、少しでも、1歩でも近づけるように精進していきたい」と誓った。

 覚醒の感なら今の第72代横綱にはある。「あっという間」と振り返った半年間。初優勝から2連覇も果たしたが「まだ半年あるから、いい年にしたい」とすら言う。今の心技体を貫けば、稀勢の里もきっと、角聖に近づく。【今村健人】

 ◆常陸山谷右衛門(ひたちやま・たにえもん)本名・市毛谷右衛門。1874年(明7)1月19日、現在の水戸市生まれ。1892年6月場所初土俵。1903年夏場所後に横綱昇進も、決定後に「梅ケ谷と一緒がいい」と希望してライバルと同時昇進。「梅常陸時代」を築いた。当時は優勝制度がなく、09年夏場所で定められてからは優勝1度だが、幕内32場所でわずか15敗(150勝)。14年(大3)夏場所で引退し「出羽ノ海親方」として3横綱4大関を輩出。22年6月19日に敗血症のため48歳で急逝。初の協会葬となった。