大相撲の元関脇栃煌山が引退し、年寄「清見潟」を襲名した。不器用だが、魅力にあふれた力士だった。

運動神経は鈍い。体は硬い。高知県安芸市出身。小2で相撲を始めた。相手が怖くて「あっちいけ!」とか「さわるな!」と声を出しながら相撲を取った。稽古を初めて見に行った両親があきれるほどだった。サッカーのPKでは、ボールが止まっているのに空振りした。

幕内力士は、運動能力にすぐれたアスリートの集まりだ。平均体重160キロにもかかわらず、その多くが自在に自らの肉体を操り、俊敏性にも富む。そんな中、栃煌山が戦ってこられたのは、なぜか? ある時聞くと、こう答えた。

「相撲は反復して覚える。体にしみつけばやれるんです」

とにかく根気強い。中学横綱になり、高校は名門・明徳義塾で鍛えられた。角界入りしてからも、センスがないことを自覚して、努力を繰り返した。

入門直後の栃煌山らしいエピソードがある。ちゃんこ番で、初めて米とぎを命じられた時のこと。「とぎ汁が透明になるまでやるんだぞ」と言われ、全力で40分も続けた。すると米は粉々になり、いつもの半分しか炊けなかったという。

生命線は、鋭い立ち合い。低く当たってからもろ差しか、右四つになって寄り切る。これしかなかった。技は少なく、劣勢になると、しのぐ動きはあまりない。だから、あっけない負けもあるが、はまれば横綱も倒す。金星は6個(白鵬、日馬富士、鶴竜から1個ずつ、稀勢の里から3個)。昭和以降10位となる三役在位25場所。三賞は殊勲賞、敢闘賞、技能賞を各2度ずつ獲得した。本場所中、全体の稽古が終わっても1人土俵に残り、若い衆を相手に立ち合いの形を納得いくまで繰り返してきた。春日野部屋でのいつもの光景が、本場所での下支えになっていた。

立ち合い変化は、めったにしなかった。負けると、支度部屋ではほとんど話さなかった。取組前、必ずユンケルを1本飲む。入場前の花道では必ず、緊張してえづいた。稽古熱心で裏表がないから、勝つと付け人が本気で喜んだ。

栃煌山。十両に上がる時に本名の影山から改名した。春日野親方(元関脇栃乃和歌)から「考えておいてください」と依頼された母の雪絵さんが、しこ名を考えた。読みは「とちおうやま」ではなく、あえて「とちおうざん」にした。やさしい性格に、もっと強さを加えたかったのだという。

分け隔てなく、誰からも好かれる性格は少年時代から変わらない。雪絵さんは中学時代のことが忘れられない。同学年に1人、不登校の子がいたが、影山少年にだけは心を開いていたという。卒業時、校長からこう言われた。「教師の立場ながら、この子の存在がありがたかった。こういう子は、最近では珍しい。やさしい、いい子っていうのとは違うオーラを持っている子やった。私だけでなく、教員全員がそう思っています」。

勝負の世界に入っても、やや天然な性格は周囲から愛され、現役生活をまっとうした。

コロナ禍にあり、15日の引退会見はオンラインだった。どんな思いで稽古してきたのか聞かれると、こう答えた。

「器用な相撲は取れなかった。しっかり課題を持って体にしみこませるように常に稽古をしていた。なかなか最後、上の番付に上がることができなかったけど、自分のやってきたことに間違いはなかったと思う」

きっと、いい親方になる。【佐々木一郎】