製作に携わった映画が米アカデミー賞で計15ノミネート、その内4部門で受賞--日本人として最多の実績を誇るのが英国在住のプロデューサー吉崎道代さん(80)だ。その波乱の半生を振り返った自著「嵐を呼ぶ女」(キネマ旬報社)が出版されたのを機に来日、話を聞いた。
「許されざる者」が作品、監督賞となり、クリント・イーストウッドにスポットライトが当たった第65回(93年)アカデミー賞で、業界内では「彼女こそ本当の勝者」と言われたのが、当時48歳の吉崎さんだった。「ハワーズ・エンド」が9ノミネート3部門受賞、「クライング・ゲーム」が6ノミネート1部門受賞と、共同製作した2作品が実質的な勝利を収めたのだ。
「受賞がうれしかったのはもちろんですが、私の立場としては、実はノミネートされている俳優やクルーに書き送った膨大なノート(メモ)が気になってしょうがなかったんです。そこにはお世話になった方々、主に投資家ですが…感謝の言葉を送る名前が書いてあります。受賞したときに割り振られた時間(45秒)内で、それを読み上げてもらうのが、次につなげるために何より重要なんです」
が、「クライング-」で脚本賞に輝いたニール・ジョーダンは名前を呼ばれても登壇しない。半ば受賞を諦めていた彼は、肝心の時にトイレに行っていた。数分遅れで舞台に上がると「まさかと思い、ゆっくりおしっこをしていました」と爆笑を誘ったが、吉崎さんから渡されたメモをポケットから出そうとした時に司会者から時間切れを告げられてしまう。
「ハリウッドの人たちは英国人のジョーダンらしいジョークと受け止めてくれたようです。せっかくのノートが無駄になったのは残念でしたが、好意に満ちた拍手にホッとしたことをよく覚えています」
常に資金集めが最優先のプロデューサーならではの舞台裏エピソードである。
授賞式後のディナーパーティーでは「ハワーズ-」で主演女優賞を取ったエマ・トンプソンとテーブルを囲むが、この賞を逃したカトリーヌ・ドヌーヴがなぜか同じ席に案内された。
「英国人の若手に賞をさらわれたことが大女優のドヌーヴには許せなかったんでしょうね。もともと英仏の女優さんは仲が悪いんですけど、ドヌーヴは同伴したエージェント以外とはいっさい口をきかずにエマのことをジーッとにらんでいる。フレンドリーなエマも当惑していました。大人げない人、正直、イヤな女だと思いましたね」
大女優にも歯に衣(きぬ)着せないところがこの人らしい。
高校卒業後、いきなりイタリア・ローマの映画学校に単身留学し、「映画人生」が始まった。
「大分の田舎で、7人兄妹はみな優秀。東大、一橋…私だけがどこにも受からず、容姿にもコンプレックスがあったし、日本では行き場がありませんでした。ただ映画が好きで、特にフェリーニ、イタリア映画が大好きでした。で、ローマ。バカでしょ、もう暴挙ですよね。でも『無知の強さ』がありました」
人一倍の熱意を武器に階段を1つ1つ上がっていく。75年、日本ヘラルド映画に入社して欧州映画の買い付けに携わる。多国間の共同製作となった「戦場のメリークリスマス」(83年)の全契約を取りまとめ、「ニュー・シネマ・パラダイス」(88年)の日本配給権を獲得してベスト・ディトリビューター賞に輝いた。
92年には映画製作会社NDFを立ち上げ、「裸のランチ」「スモーク」など、手掛けた作品はいずれも国際的な高評価を得た。
「私の作品は、特にアメリカでは過大評価されている気がします。買い付けをしていた経験があるから、観客の目線に近い感覚はあるんだと思います。基準があるとすれば、1カ所でもいいから観客をドキッとさせるインパクトがあること、そして、脚本を読んで私自身が心を動かされるかどうか、ですね。いくらでも夢は語れるから、必ずそれを買ってくれる投資家に出会うことができました」
94年以降「スクリーン・エンターテインメント」誌が選ぶ「世界のパワープレーヤー100人」に何度も選出されたのも、その眼力と、よどみなく「夢」を語るプレゼンテーション力があってのことだろう。
自著「嵐を呼ぶ女」につづられた半生は、自身のプロデュース作品で展開される物語以上に起伏に富んでいる。
「18歳の私はマーロン・ブランドが大好きで、もうひとつの動機を明かせば、彼の子どもを産みたい、ととんでもない妄想を膨らませて欧米の映画界に飛び込んだんですよ。若い頃のブランドは本当にいい男でしたから(笑い)。プロデューサーになってみれば、俳優は大切な商品です。商品に手をつけるのはプロではないと思います。でも、まだ映画の買い付けをしていた頃だから、許されますかね。アラン・ドロンとは1度だけ…」
40年以上前の話。主演映画の宣伝打ち合わせのためパリのレストランで吉崎さんの横に座ったドロンはいきなり膝に手を置き、その後は自然な成り行きで…。
「たった1回。体育会系のそれで、決して上手ではなかったですね。当時、顔見知りの銀座のママさんからは『ドロンは日本人好きだから、この界隈(かいわい)には彼と寝たことのない子なんていないから』といわれたし、何年か前にこのことを『新潮45』にちょこっと書いてしまったものだから、お世話になっていたメディア企業のトップから『そういうことを明かすのはルール違反だよ』とたしなめられました(笑い)。まあ私はイタリアで鍛えられていますから」
悪びれない笑顔。文字通りの「世界のパワープレーヤー」である。【相原斎】
◆吉崎道代(よしざき・みちよ) 1942年(昭17)6月18日、大分県生まれ。75年、日本ヘラルド映画社に入社。92年、映画製作会社NDFジャパン設立。シングルマザーで、長男の吉崎アド氏も国際派の映画プロデューサー。




