名曲やヒット曲の秘話を紹介する連載「歌っていいな」第25回は、昭和を代表する石原裕次郎さんの名曲「夜霧よ今夜も有難う」です。ムードたっぷりの裕次郎さんの歌声が印象的な曲ですが、大スターだからこそ生じる問題に頭を悩ませる制作関係者もいました。

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1967年(昭42)2月、当時33歳だった石原裕次郎さんが歌った「夜霧よ今夜も有難う」が発売された。4月から珍しく全国キャンペーンを行うことになり、当時、テイチクレコードの担当ディレクターだった中島賢治さんは、経理部長に呼ばれた。「売れれば売れるほど出費がかさむ。加えてキャンペーンですか?本当にやる気かね…」。

その6年前、同社は松下電器産業と業務提携し、松下式の経営へ転換期にあった。制作、宣伝費などの予算のパーセントが細かく決められた。経理部長は松下からの出向だった。苦言は当然だった。「夜霧よ今夜も有難う」は日本音楽史上最高といわれる高額印税コンビの作品だったからだ。

裕次郎さんが、初めて浜口庫之助さんとコンビを組んだ曲だった。浜口さんは売れっ子の作詞・作曲家で引く手あまただった。その頃は、ロカビリー全盛で、裕次郎さんは歌手としてはやや苦戦していた。66年初夏、裕次郎さんが東京・銀座のクラブで飲んでいる時、偶然、浜口さんと会い、「都会的で粋な大人の歌を作ろうよ」と意気投合して生まれたのが同曲だった。

黄金コンビによる同曲は都会的な香りが受けて大ヒットし、その後の裕次郎さんの曲調を決定付けた。

だが、テイチクには頭の痛い問題があった。浜口さんは売れっ子ゆえに当時、日本音楽著作権協会(JASRAC)の会員ではなく、フリーの作家として破格の印税を得ていた。その頃の浜口さんとレコード会社との印税契約は1曲につき10円。当時330円のレコードでA、B面を作れば1枚で20円の印税が入った。A、B面で印税6円60銭の時代。浜口さんは、実に3倍の高額印税を得ていた。

一方、裕次郎さんはビッグスター。1曲につき20円、A、B面で40円の歌唱印税契約を結んでいた。これ以外に1年1000万円の専属契約料、1曲につき5万円の特別手当が支払われた。裕次郎さんと浜口さんのコンビは、シングル1枚で計60円の印税を得た。発売1年間で100万枚を売り、印税は6000万円に達した(現在まで250万枚)。車、クーラー、カラーテレビの新三種の神器がもてはやされ、「百万長者」という言葉が生まれた。大卒初任給が3万、4万円の時代に、まさに破格の印税だった。

加えて全国キャンペーンは、各地の一流ホテルを使い、数百人を招いた。膨大な経費がかかるため、経理部長は嘆き続けた。あまりに経費がかさむので、パーティー会場で撮影した写真が、違うシングルのジャケット写真に代用された。72年発売の「何故か愛せない」は、福岡・西鉄ホテルのキャンペーンで撮影されたものだった。

中島さんのあと、裕次郎さんの担当ディレクターとなった高柳六郎さんは「『夜霧よ今夜も有難う』のB面は、同じ浜口さんが手掛けた『粋な別れ』でした。この曲はその後、裕次郎さんのベスト5に入ると言われる作品となりましたが、当時は、B面がどんな秀作でヒットの確信があっても、メーカーのポリシーとして、分けて発売するようなことはしませんでした。別々に発売してたら『粋な別れ』も間違いなくミリオンヒットでしたね」と語る。ただし、もし「粋な別れ」もシングルとして別々に発売していたら、テイチクの懐事情は、一層シビアなものになっていたかもしれない。【特別取材班】

※この記事は96年11月22日付の日刊スポーツに掲載されたものです。一部、加筆修正しました。連載「歌っていいな」は毎週日曜日に配信しています。