フリーアナウンサー吉田照美(68)が16日、都内で行われた文化放送の定例会見に出席した。

74年に同局に入社して、85年の退社後も“文化放送の顔”として活躍したアナウンサー生活を振り返った。

吉田は「元々、人前でしゃべるのが苦手だったんだけど、早大に入ってアナウンサー研究会で勉強した。銀行に行こうかとも思ったけど、デスクワークが苦手なので、身の程知らずにもアナウンサーを目指しました」と振り返った。

入社して4年半ほど、大相撲中継の支度部屋情報を担当。27歳の時に、当時の看板番組だった深夜放送「セイ!ヤング」のDJを命じられた。「その時が一番うれしかった。深夜放送をやるのが最大の目標でしたから。それ以上、うれしかったことは、その後ない。最大の喜びの思い出です」と振り返った。

念願の「セイ!ヤング」のDJになったが、裏番組が当時、最大の人気を誇ったニッポン放送のタモリ(73)の「オールナイトニッポン」だった。「勝てるわけないというのが、正直な気持ち。バカみたいな事、体当たりをやり続けるしかない。バカなことをやり続けていたのが、僕の昭和の時代で2年半続きました」。

80年からは業務命令で、午後9時からの帯ワイド「吉田照美のてるてるワイド」を担当。「『バスルームより愛をこめて』というコーナーを作って、女の子にお風呂に入って一人語りをしてもらったものを送ってもらった」と話した。

85年に文化放送を退社。「このまま、やっていけるわけがない。いつか他の部署に移ることになるかもしれない」と思って辞表を提出した。87年からは午後1時からの帯ワイド「吉田照美のやる気MANMAN!」を担当。当初は、裏番組のニッポン放送「いまに哲夫の歌謡パレードニッポン」にまるでかなわなかったが、20年続く長寿番組へと育て上げた。

現在もパーソナリティーを務める「伊東四朗・吉田照美親父熱愛」(土曜午後3時)など文化放送の番組に出続けている。

現在のラジオ界について、吉田は「僕は受け手にも、送り手にもなりうる。今は、事実として行われていることを伝える力が弱っていると思う。風刺とか批判精神が大切なんだけど、今は同調圧力によって消されている。頑張らないとネットに凌駕(りょうが)されてしまう時代が来てしまう」と話した。

ラジオの面白さについては「僕はラジオの面白さに深夜放送で目覚めた。下ネタができる(笑い)。あと、テレビはうそをつけない。きれい事を言っている政治家でも、そうじゃないのが分かってしまう。それほどカメラは怖い。ラジオは“いい意味”でうそをつけるのが面白い。テレビよりラジオの方が遊べる。『令和』の時代が来るけど、同じことをやっても、まねっこになってしまう。もう68歳でクソジジイですが、クソジジイに生(放送)でバカなことをやらせるのもいいじゃないですか」と笑った。