来月5日に、フリーアナウンサー生島ヒロシ(70)が1998年(平10)4月6日からパーソナリティーを務める、TBS系ラジオ「生島ヒロシのおはよう定食/一直線」(月~金曜午前5時)が6000回目の放送を迎える。

宮城県気仙沼市に生まれ、法大、米国留学、TBSを経てフリーに。「生島ヒロシ6000回の歩み」と題して、その道筋を追ってみた。

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1969年(昭44)4月に法大に入りましたが、学生運動についていけずに挫折してしまいました。それで落ち込んで、目標が見つからないまま大学生活を送っている僕に、空手同好会の先生が声を掛けてくれました。

「アメリカに一緒に行かないか。英語を勉強してるみたいだし、お前の空手の技をアメリカで試させてやりたい」

学費や生活費を稼ぐためにアルバイト漬けの毎日でしたが、勉強もしっかりやっていました。大学のそばに教会があって、アメリカ人の先生がいたので、バイトの合間に暇を見つけては通って、英語をマスターしようと頑張っていました。

これも何かのチャンスだと、その気になったんですが、結局、その話は流れてしまいました。だけど、1度燃え上がった生島青年の志は収まらない(笑い)。大学2年が終わったところで、法大をやめてアメリカ行きを真剣に目指したんです。

アメリカで自分が身を立てるには空手だ、ということで、池袋にあった極真会館の本部に大山倍達さんに会いに行きました。そこで高弟の大山泰彦さんに教えを受けました。「アメリカに行きたいんだけど、極真の指導員として行かせてくれませんか」と頼んだりもしたんだけど、経験が浅いということで、かないませんでした。

そんな感じで展望は開けなかったけど、渡米するためにはお金をためなくちゃいけない。割りのいいバイトを探して、メチャクチャ働きました。横浜の港で一晩中、重い荷物を担いで港湾労働者として働いたり、京王プラザホテルとかホテル精養軒の配膳会の仕事をしました。配膳会の仕事は時給が400円くらいでした。皿洗いの時給が、せいぜい150円くらいの時ですから、うれしかったですね。

そんな感じで、当時のお金で30万円くらいをためました。飛行機のチケット代が、往復で20万円くらいでした。結局、日本を7月に出発したんだけど、親に伝えたのは1週間くらい前でした。親は子供のことをあれこれ心配するんだけど、子供なんてそんなもんです(笑い)。おやじは喜んでくれたけど、おふくろとおばあちゃんは反対していました。

最初の目的地はハワイでした。生まれて初めて飛行機に乗ったんですけど、ファーストクラス。通っていた英語学校の先生のご主人が、パンナム航空の偉い人で「ハワイまでの往復のチケットをエコノミーで買いなさい」と。アップグレードでファーストクラスに乗せてもらったけど、周りに人がいなくてシートベルトの締め方も分からず、結んじゃったりしていました(笑い)。格好をつけて「ア・カップ・オブ・コーヒー」って頼んだら、コーラが出てきました。トイレもドアを閉めたら電気がつくのを知らずに、開けたままでいたら注意されました。

そんな珍プレーはたくさんありましたが、20歳の生島青年は1971年(昭46)の7月に、初めてハワイの地に降り立ったんです(続く)。

◆生島(いくしま)ヒロシ 1950年(昭25)12月24日、宮城県気仙沼市生まれ。71年に法大経営学部を中退して渡米。75年カリフォルニア州立大ロングビーチ校ジャーナリズム科卒。76年TBS入社。89年にフリー。現在のレギュラーはTBSラジオ「生島ヒロシのおはよう定食・おはよう一直線」(月~金曜午前5時)。長男は俳優生島勇輝(36)次男は俳優生島翔(35)。血液型A。