TBSラジオ「生島ヒロシのおはよう定食/一直線」(月~金曜午前5時)が、来月5日に6000回目の放送を迎える。1998年(平10)4月6日の放送開始から23年。パーソナリティーを務める、フリーアナウンサー生島ヒロシ(70)の人生を連載「生島ヒロシ6000回の歩み」と題して振り返る。

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カリフォルニア州立大ロングビーチ校に通った最後の1年くらいは、日本語放送局でバイトをしていました。朝から晩まで日本語のテレビ局。今はね、そんなにないんですよ。いろいろネットとかもあるから、せいぜい1時間とか2時間の枠を買い取った番組とか。当時は、テレビジャーナリストとして毎日、いろいろ過激な原稿を書いていました。日系人社会では、表だって取り上げられることのない差別問題とか。

でも、すごく問題になってクビになっちゃった。“常識の非常識”というのが好きでね。お見舞いに花を持って行くというのは、病気によっては駄目なんですよと言う記事を見つけて、面白いなと思って訳して日本語でやった。枯れたりしたら、病人のかたが気にするからねと。それで、烈火のごとく怒られちゃった。何考えてんだ、ここはフラワーショップがスポンサーだぞ! って(笑い)。

即刻クビになって、もう記事は書かなくていいから。しゃべる方をやれと。それで赤いジャケットを着て、クイズショー番組の司会をやったんです。日本人向けの。だから、僕の司会者デビューはTBSじゃなくて、カリフォルニアのUTB(ユナイテッド・テレビジョン・ブロードキャスティング・システム)なんです(笑い)。

それで、番組の司会者として現地の日本人社会では、みんが見ているから有名になっちゃった。ロサンゼルスのダウンタウンにある日本人街のリトル・トーキョーに週末に行くと「生島さん、サインください」とか言われちゃって(笑い)。だってみんな楽しみに見ているわけだから。あの頃は日本も元気で、日系人も元気でした。

当時は、日本に電話するのも、1年に1回とか2回でしたね。だって、料金が高いから。今みたいにSNSで海外と無料通話なんて考えられもしなかった。クリスマスとか母の日に、頑張って電話すると妹が出て「お兄ちゃんから電話よ」っておふくろにつないでくれて、喜んでくれましたね。

それで1975年(昭50)の夏に、ちゃんとカリフォルニア州立大ロングビーチ校を卒業したんです。アメリカに残るか、日本に帰るかで悩みました。でも、やっぱり4年間で1回も帰ってなくて里心がついていたのと、おやじががんになっていたので帰ってきました。4年もアメリカに行ったきりでしたが、やはり自分は生島家の長男だという思いがありましたから。

それで、帰国した75年の11月にTBSの入社試験を受けました。その受験前日までアメリカに商売のために行ってたんですけどね。TBSがダメだったら、商売やろうと思ってたんです。日本の爪切りとか、細かくてすごいもの持っていって、逆にアメリカのデンタルフロスとか、ああいうものを持って来ようと。輸入と輸出を両方やろうと思って、アメリカのデパートとかに1人で売り込みに行ったんです。

アメリカに10日間くらい行って、帰ってきた翌日にTBSを受けたんです。ダメだった時のためにリスクヘッジをかけていて、TBSに落ちていたら貿易やっていたでしょうね。

(続く)

◆生島(いくしま)ヒロシ 1950年(昭25)12月24日、宮城県気仙沼市生まれ。71年に法大経営学部を中退して渡米。75年カリフォルニア州立大ロングビーチ校ジャーナリズム科卒。76年TBS入社。89年にフリー。現在のレギュラーはTBSラジオ「生島ヒロシのおはよう定食・おはよう一直線」(月~金曜午前5時)。長男は俳優生島勇輝(36)次男は俳優生島翔(35)。血液型A。