今夏アテネ五輪の名シーンを、あの歌とともに記憶している人は多いだろう。人気デュオ「ゆず」がNHKの五輪テーマソングとして歌った「栄光の架橋」。北川悠仁(27)と岩沢厚治(27)の出発点は、横浜・伊勢佐木町-。週末の夜、路上で張り上げていた歌声が、全国津々浦々を覆い尽くした。栄光までの道のりは、喜びと葛藤(かっとう)の繰り返し。乗り越えさせたのは、童顔のさわやかな顔立ちとは裏腹な、骨太な気質だった。

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言いようのない心の高ぶぶりを覚えた、という。北川はこの夏、五輪観戦のためアテネを訪れた。仕事絡みではない。両親も伴った完全なプライベート。親孝行の意味もあったが、アスリートの精神力、ドラマを生で見たかったからだ。

北川 水泳の北島選手の200メートル平泳ぎ、柔道女子78キロ級の阿武選手の金の瞬間を見てきました。何ともいえない、そこにいるだけで胸が熱くなりました。国旗が揚がり君が代を聴いた瞬間、涙が出ました。今の時代いろいろ問題はあるけど、この国に生まれたことにすごい誇りを感じました。

北川が現地で感動に浸っている時、日本では「栄光の架橋」が繰り返し流されていた。体操男子団体の金メダル獲得の瞬間には、NHKアナウンサーが「新月面が描く放物線は、栄光への架橋だ」と実況した。

岩沢 あの実況は聞いていました。今回は、今まで見たことのなかった競技も目をこすりながらテレビ観戦していました。流れているのは自分たちの曲でしたが「ああ、この曲本当に映像とよく合っているなぁ」って人ごとのように思いました。

♪だれにも見せない泪(なみだ)があった 人知れず流した泪があった 決して平らな道ではなかった けれど確かに歩んできた道だ だからもう迷わずに進めばいい 栄光の架橋へと…♪

作詞、作曲を手掛けたのは北川だ。

北川 自分は小、中学生のときは「帰宅部」で、家で漫画ばかり書いているような子供でした。高校でバスケットをやりましたが、オリンピックというテーマは僕にはあまりに大きすぎ…。オファーが来て2カ月ぐらいはプレッシャーで何も書けなかったんです。でもどうしてもあきらめられない。選手の気持ちは僕なんかに分かりっこないので、そこを全部取っ払っちゃいました。自分が歩いてきた道を書こうと思ったんです。

岩沢 最初に北川から歌が上がってきたとき、これは自分にも遠くない曲だなと思いました。明らかに北川の思いが詰まった、北川の歌だけど、選手にも通じるものを感じました。

北川 生きていく中で負けること、悔しかったことはだれにでもある。主婦だって、サラリーマンだってそうじゃないですか。でもその中で「頑張ってきて良かった」という瞬間もあるはずですから。そういう気持ちでつくった歌ですね。

96年3月に結成した「ゆず」の活動拠点は、横浜・伊勢佐木町の松坂屋前の路上だった。岩沢は高校1年の冬から本格的に音楽を始め、既に“路上デビュー”していた。19歳。当時岩沢は、ピアノの専門学校生。一方の北川は、役者を志してオーディションを受け続けるが、うまくいかない。路上で1人歌う岩沢の姿に魅せられた北川が「一緒に音楽をやりたい」と告白。01年、東京ドームで5万5000人を前に歌うまでに成長したサクセスストーリーは、ここから始まった。

岩沢 北川とは小中の同級生でしたが、初めてクラスが一緒になったのは中3のとき。特に一緒に遊んだり、しゃべったりする仲でもなかった。何で今こうして一緒にいるんでしょうね(本気で首をひねる)。

北川 友達にもよく「何でお前と岩沢なんだよ」って言われます。別に将来の夢を2人で語り合ったこともないし不思議ですね。

路上ライブを始めたころは、冷たい視線も感じた。だれも相手にしてくれない日もあった。苦しかった時代をどのように受け止めているのか。

岩沢 寂しいというか、悔しいというか。開き直って歌っていましたね。自分たちは一生懸命歌っているのに…、どうせあなたたちは酔っぱらって歩いているだけでしょって、冷めた目で世界を見ていました。

北川 自分たちの世界に没頭していました。確かに劣等感のようなものはありました。こんなところでやっていても、プロにはなれない。別に相手にしてくれなくていいですよって、思ったこともありました。でもやるうちに1人、2人と「さっき歌った曲は何?」とか話し掛けられて。むしょうにうれしかったですね。

岩沢 何でやっているかが大事だと思うんです。(路上ライブは)損得じゃないし、やりたいから、楽しいからやっているという気持ちが大事だと思う。

北川 どんな状況でも人に感謝する思いって、すごい大切。たとえ聴いてくれる人が1人でも、持てる100%の力で歌う。路上でもドームでも、その気持ちは変わらない。自分なんかって、ずっと思い悩んできたけど、自分なんかって思いたくないから頑張った。路上は今の自分たちから切り離せない原点です。

2人は今も時間があれば、松坂屋の前を歩いてみるという。そこには、あのときの自分たちのように、現実と夢とのギャップにもがく若者がたくさんいる。

北川 オリンピックを実際に観戦して、必ずしも結果がすべてじゃないと思いましたね。金メダルを取ろうが取るまいが、そのプロセスとどう向き合ったか。音楽で決してプロになれなくても、自分でつくった歌、ライブを精いっぱい楽しめばいい。1つの目標を持つ中で忘れたくないことです。

勝者の話ではある。が、痛みを味わったことのある者の言葉でもある。

あまり不仲説も聞かない。普段から仲良しなのか。

岩沢 まぁ、2人しかいないんで、どちらか脱退したら、1人になっちゃうし。もともと仲が良かったわけではないから、だんだんお互いの素の姿を知っていくような感じで、楽しさもありました。

北川 2人とも周りに気を使うタイプなので、空気を読むんです。だから今日は機嫌が悪いな、何か嫌なことでもあったのかなって思うときは、近づかない。

岩沢 干渉する必要がある時はしますが、あまりほじくらない。「ゆず」として重要な話し合いがある時は、深夜だろうと緊急に電話して、集合っていうこともある。でも個人の問題は、それなりにいい大人なので各自で解決していただくシステムを取っています。

北川 価値観が近くないんですよ。まるで反対の世界観。だから自分にない要素として、岩沢を受け入れられる。岩沢の曲1つにしても、自分にない発想に出会える喜びもあります。

休日に2人で旅行に出掛けることはないのか。

岩沢 勘弁してくださいって感じですね(北川も大きくうなずく)。休みの日に1人で買い物に行くと、よくファンの方に「今日は一緒じゃないの?」って聞かれます。いつも一緒のイメージがあるんでしょうね。休みの日ぐらいは会わない方がいいと思いますよ。

路上からスタジアムライブへ。CDも出せばミリオンセラー。生活も財布の中身も変わったのでは。

岩沢 初めての給料は5万円。交通費は何とかなるかなって思ったりしました。後は大事に飲ませていただいてます(笑い)。

北川 僕は家を買いました。生活は不自由なくなりましたね。でも初めて曲を出してお金が入ったときには親に渡しました。

 この先の目標は。

岩沢 おじさんになっても「ゆずでーす」って言っている自分たちを見てみたいですね。

北川 年を取れば腹も出てくるだろうし、いずれは家族もできる。外見とかは変わっても「ゆず」の魂はずっと変わらず持ち続けたいです。路上で僕たちの歌を聴いてくれたお客さんの顔を忘れずに。そういう気持ちがなくなったら辞めた方がいいですから。

 変化していくものと、変えられないものがある。しっかりと芯(しん)の通った考え方が、ここまで上り詰めた大きな要因に思えた。

 

女優石原さとみ(17) ゆずさんの曲は切なくもなり、ポジティブにもなり、ライブが終わるころには元気をもらって、本当に楽しい気分になるんです。もう、大好きです! 小学生のころから大ファンでした。だから昨秋にCM(グリコ「ポッキー」)で共演させてもらえると聞いた時は、びっくりしました。その共演がきっかけで、CDのジャケットモデルをさせてもらって、プロモーションビデオにも出演。うれしくてしょうがなかったです。お2人は優しくて温かくてめちゃくちゃカッコイイです。

 

◆ゆず リーダー北川悠仁(きたがわ・ゆうじん)1977年(昭52)1月14日生まれ。サブリーダー岩沢厚治(いわさわ・こうじ)1976年10月14日生まれ。いずれも神奈川県横浜市出身。96年3月にコンビを結成し、横浜・伊勢佐木町で路上ライブを始める。現在の所属事務所社長にスカウトされ、97年10月にファーストミニアルバム「ゆずの素」をリリース。99年発売のアルバム「ゆずえん」は180万枚を売り上げ、01年6月には東京ドームコンサートを実現。03年NHK紅白歌合戦に初出場。