人間国宝の落語家柳家小三治(やなぎや・こさんじ)さん(本名・郡山剛蔵=こおりやま・たけぞう)が7日、心不全のため都内の自宅で死去した。81歳だった。

10日、落語協会が発表した。故人の遺志により、葬儀は密葬で営まれた。最後の高座は今月2日、東京・府中の森芸術劇場での「猫の皿」だった。

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取材が嫌いな人だった。2010年、落語協会会長に就任した時にインタビューをお願いしたら、「取材は嫌。適当にうまく書いて」と言われた。予定した1ページ分の記事を適当には書けない。細切れに話を聞いて、何とか仕上げた苦い思い出がある。

マイペースな人だった。普通、簡単なマクラを振って落語に入るが、小三治さんはマクラが異常に長かった。1時間の高座でマクラが50分、落語が10分ということもざらだった。ファンは、その自由な高座を愛した。

本当は新劇俳優に憧れていた。主役から脇役、演出までできるからと噺家(はなしか)になった。娘が文学座に入り、女優として活躍している。普段は仏頂面の小三治さんも、娘さんの舞台の話にはニヤリと笑った。父の顔だった。

名跡にこだわらない人だった。師匠柳家小さんさんが亡くなった後、小三治さんの「6代目小さん」襲名を期待する声もあったが「小三治で30年以上。小三治と言えば、私のこと」と興味を示さず、息子三語楼の小さん襲名を後押しした。

40年前に落語担当になった時、寄席やテレビで活躍していたのは古今亭志ん朝さん、立川談志さん、三遊亭円楽さん、春風亭柳朝さんの若手四天王だった。その中で、小三治さんはテレビに目を向けず寄席や落語会で地道に力をつけ、チケットの取りにくい落語家になった。志ん朝さん、柳朝さんは早く亡くなり、談志さん、円楽さんは落語協会を去った。協会に残った小三治さんは会長となり、14年に人間国宝と頂点を極めた。

小三治さんの話で印象に残るのが、若い落語家への言葉だった。「売れることが成功と思わないでほしい。死ぬ瞬間に『ああ、良かった』って思える人が一番の勝者じゃないか」。小三治さんは「良かった」と思っているだろうか。【林尚之】