コメディアンのぜんじろう(53)をインタビューした。20日に東京・下北沢の小劇場・楽園で開催される公演「スタンダップコメディGO! Vol.2」(午後6時半開演)に出演する。

取材は1時間の予定だったが、聞きたかったこと話したかったことが山盛りで倍の2時間、インタビューしてしまった。新聞紙面だけでは書き足りないので、ネットの「日刊スポーツcom」でぜんじろうの話を連載中だ。

記者にとって、ぜんじろうは長らく”まだ見ぬ強豪”といった感じのタレントだった。初めてその名前を知ったのは28年前の1993年6月のことだった。トレンディードラマの全盛時代だった当時、フジテレビのヒットメーカー大多亮プロデューサー(現常務)の連載を始めることになった。

当時放送中だったのは「ひとつ屋根の下」。江口洋介演じる「あんちゃん」と、その家族の物語。それまでヒットさせてきた「抱きしめたい」「101回目のプロポーズ」「愛という名のもとに」などのトレンディードラマとはひと味もふた味も違う展開に、デスクから「フジテレビの大多プロデューサーはすごいな、話を聞いてこい」と指令を受けた。

東京・曙橋にあったフジテレビの制作局に行ったか、広報局まで来てもらったか。まだ、テレビ局の入館証もなかったし、取材依頼書なんてものも書いたことがなかった時代だ。あれこれ話を聞いて原稿を書いたら、デスクが「面白いな、よし連載にしよう」と言い出した。翌日、フジテレビに行って大多さんに「連載することになりました」と言ったら驚いていたけれど、その次に行ったら話すネタを用意して待っていてくれた。

そして、連載の題名を決める時にデスクが「大阪ではぜんじろうというタレントの『テレビのツボ』という番組が大ヒットしてるらしい。だから『ヒットのツボ』で、ええよな」となぜか急に関西弁になって「ヒットのツボ--フジ人気ドラマプロデューサー大多亮の世界--」という連載が始まった(笑い)。

で、その後のぜんじろうだ。その2年くらい前に、日本テレビのバラエティーを担当していた桜田和之プロデューサー(現静岡第一テレビ会長)から「今度、大阪の若手芸人で『吉本印天然素材』という番組をやるから」と言われていた。今から思うとメンバーは雨上がり決死隊、ナインティナイン、FUJIWARA、バッファロー吾郎、チュパチャップス、へびいちごなど”未来のスター”ぞろいだったのだが当時はピンとこなかった。番組も2年半ほどで終わり、ナインティナイン以外は、東京への再挑戦を余儀なくされた。

その初期のリーダーが、ぜんじろうだったというのだ。だが、日テレのディレクターと折り合いが悪くなり、上京してすぐに外されてしまったという。そして、関西に帰って毎日放送「テレビのツボ」を大ヒットさせた。日本テレビ「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」などで再び東京進出を果たしたが、パッとしなかった。

そのあたりの話をたっぷり聞けた。ネットも普及していなかった時代、「テレビのツボ」を見ることができないまま終わった。ぜんじろう連載を始めた途端に、関西人の友人、仕事関係者から「テレビのツボ」が、いかに面白く、素晴らしい番組だったかをSNS、メールで説かれている(笑い)。【小谷野俊哉】