円楽さんは、アイデアマンで理知的、そして涙もろかった。

落語に関する構想は、落語界の興隆と願う気持ちが通底していた。宙に浮いたままの大名跡の三遊亭圓生の襲名。「このままだと圓生の名前が忘れられてしまう。この人ならという人が出てくるまでつないでおきたい」と、自分のためではないと強調した。

東京の落語団体を統一することも目指していた。今後は演芸プロデューサーとしての活動比率を増やしたいとしていたことも、落語がもっと注目されるためにと願ってのこと。病気をしたことも前向きにとらえ「あちこちに聴きに行こうと思う。落語に関われる仕事があればなんでも」と、才能を発掘したいとの思いを持っていた。

ここ数年は涙を見ることも多かった。闘病し競技に復帰した競泳の池江璃花子選手について語った時は「すごいわ。俺も頑張ってるけど、ああいう風には頑張れない」と目尻をぬぐった。今年8月の復帰高座では、満席の客席を見て涙し、医師や看護師に感謝して泣いた。

円楽さんは毒舌でも泣き顔でも、どの表情にも人間味があふれていた。【小林千穂】