元プロレスラーで参議院議員も務めたアントニオ猪木さんが1日午前7時40分、都内の自宅で心不全のため亡くなった。79歳だった。

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アントニオ猪木さんは5年前、既に死を意識し、来たるべき日に向けた終活を始めていたのかも知れない。1日午前に訃報が流れた瞬間、脳裏に浮かんだのが、5年前の2017年(平29)10月21日に東京・両国国技館で開催した生前葬と位置付けた興行「INOKI ISM.2 猪木劇場~アントニオ猪木『生前葬』~」だった。

開催前月の17年9月14日、都内で興行の会見を開いた猪木さんは、兄弟2人が同年に入って心臓の病などで亡くなったことが、開催の大きなきっかけだと明かした。同月には、タンパク質線維が心臓に沈着して多臓器不全などを起こす、数万人に1人の確率で発症する難病「全身性アミロイドーシス」と診断されていた。3年後の20年7月まで公表しなかったが、生前葬会見の3日前に北朝鮮訪問から帰国した際、猪木さんは羽田空港で激しく息切れし、記者の前で珍しく真顔で不調を吐露。会見でも「羽田に着いた時の記者会見で、やっぱり、ちょっと息切れが出てきたことがあった」と、自身の体調の異変を語っていた。

生前葬興行の当日、リング上には真っ白な棺おけが置かれ、かつて付き人を務めた藤波辰爾、藤原喜明、リングで抗争を繰り広げたスタン・ハンセン氏が“弔辞”を読むためにリングイン。そして追悼のテンカウントゴングが打ち鳴らされる中、猪木さん自らアカペラで歌う「千の風になって」が場内に流れた。

<歌詞>私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 死んでなんかいません

一部、歌詞を変えた替え歌に場内から笑いが起きる中、猪木さんは白装束にトレードマークの真っ赤なタオルを首に巻いて入場。途中で白装束を脱ぎ捨てると、スーツ姿になって両拳を突き上げた。リングインすると「生前葬? 俺も何だか分からない」と言いつつ、棺おけのふたにナックルパートをぶちかました。

そして、棺おけの中から白い球を持ち上げると、頭上に突き上げた。白から真っ赤に色が変わった球は、猪木さんの魂を意味しており「今、魂が空を飛んで異空間にいった」と言い、笑った。

猪木さんはリング上で「友人が十何年前に『お前、一緒に生前葬をやろう』と言われたことがある」と、興行からさかのぼること10年前に、友人から誘われたと明かした。その上で「その間(この日までの間に)仲間が旅立っていきました。ふと考えたら、俺も送り人じゃなく、そろそろ送られる人になりそうだな…そんなことを思いました。驚かせるのが大好きなものですから」と、自身の体調や周囲の状況を鑑みて、開催するに至ったことも明かした。

一方で、生前葬開催には、もう1つ、理由があることも明かしていた。猪木さんは、99年1月31日に亡くなった、ジャイアント馬場さん(享年61)の挑戦状を受ける意義があるとも強調していた。

「生前葬をやるという話になって急きょ、この話が盛り上がった。何年か前にジャイアント馬場さんが亡くなった。リングの上で、いつも挑戦していたんですが、理由を付けて逃げ回っていた。ある日『挑戦状を受ける…さんずの川で待っている』と。さんずの川まで行くには、ちょっと早いな。そろそろ迎えに来てもいいかな」

などと、夢枕に馬場さんが立って、挑戦状を突きつけてきたと語った。

同じ力道山門下で、ともに60年にデビューした馬場さんは、元プロ野球巨人の投手から転向し、翌61年から米国に遠征するなどエース候補として育てられた。かたや猪木さんは、ブラジル・サンパウロの市場で働いていたところを日本プロレスの遠征で来ていた力道山にスカウトされ、日本に帰国。力道山の付き人として雑用に明け暮れ、時には鉄拳制裁を交えた厳しい指導を受けた。猪木さんは馬場さんと日本プロレスではタッグも組み「BI砲」とも呼ばれた。その後、72年に猪木さんが新日本プロレス、馬場さんも全日本プロレスを旗揚げすると、外国人選手の招聘(しょうへい)、引き抜き合戦など興行で争った。

猪木さんは生前葬興行の会見で

「ジャイアント馬場とさんずの川でバトル。いつも、俺は絶対に100%、勝つ自信があるんですけど、今回は百何十パーセント。なぜかと言うと…足がないからです。十六文キックを食わなくて済むからね」

と言い、笑い飛ばしつつも、馬場さんへの強いこだわりを口にしていた。

それから2年後の19年11月、都内のホテルで猪木さんを単独取材した。同年6月に政界を引退し、同8月には妻の田鶴子さんが亡くなった中「老いと向き合うこと」が取材のテーマだった。当時も、まだ全身性アミロイドーシスは公表していなかったが「元気ですかぁ~!」「元気があれば、何でも出来る」と言いつつも「元気がなくなってきている」と付け加えた。「しょうがないでしょう、年とともに。体を酷使して、ひざから腰から肩、首…体で痛めていないところはないんだから」と苦笑しつつも、さらなる体調の悪化を自ら認めた。

一方で、馬場さんへの強いこだわりや対抗意識は「今は、もうない」とも語った。それ以上に「独り身になった今、改めて人生を考えている。人生100年と言うが、周り(同世代)を見ていると、ほとんどが施設に入ったり子や孫が世話をしないといけない。長生きすることは、いいことに違いないけれど、人に迷惑や世話をかけるんであったら、自分の寿命を精いっぱい、元気に生きて、お迎えが来たら旅立っていける心構えが必要」と語った。そして、こう言った。

「単純な言い方をすれば、人間のどこかに存在する『バカヤロー』みたいなものがエネルギーにもなっているんですよ」

生前葬を行うことで、自らの残りの人生と向き合い、プロレス、格闘技への、しがらみのような、背負ったものを全てその背中から降ろしたのだろう。聞かれれば血湧き肉躍るような過去の激闘を語るが、その目は、何だか優しかったように思う。

プロレラーの頃は対戦相手、国会議員時代は政界や世論に向けて、言い放っていたであろう「バカヤロー」という言葉も、老いと闘う…そして人生の終幕へと向かう、自らへの叱咤激励ではなかったか。子どもの頃、猪木さんの全盛期の「闘魂」「ストロングスタイル」を客席で目の当たりにして、胸の奥にヒーロー像を作り上げ、記者になって晩年の姿を追いかけた自分には、そう感じられて、ならない。【村上幸将】