俳優中村優一(36)が総合プロデュースと監督に初挑戦した映画「YOKOHAMA」が19日に公開された。

生まれ育った横浜を舞台に不条理な世界を描く3部作「贋作」「横濱の仮族(かぞく)」「死仮面」のオムニバス。「贋作」では俳優として出演、「死仮面」は監督に挑戦した。

公開にあたって、中村をインタビューした。生まれ育った横浜のこと、俳優として、監督としてと、いろいろな話を聞いた。ルックスだけをみると典型的な二枚目なのだが、骨太な人柄でいろいろなことを率直に語ってくれた。その中でも、特に印象深いことがふたつあった。

1つは1度芸能界から引退して、復帰した話だ。中村は2004年(平16)7月、高校2年の時に「第1回D-BOYSオーディション」でグランプリを受賞。翌年、日本テレビ系連続ドラマ「ごくせん 第2シリーズ」俳優デビュー。大手事務所の“ドラフト1位”で芸能界入りして、人気ドラマシリーズでデビュー。だれもがうらやむ経歴だ。だが、12年に引退。まだ、24歳の時だ。

中村は「運良くいききすぎて、台本に描いてある人間の葛藤とか喜怒哀楽とかを分からなかったんですね。演じるに当たって不安があったので、1度辞めてみようということでした。同世代が、ちょうど大学に進学して卒業するタイミングだったら、まだ社会復帰が間に合うんじゃないかと。そういうことで1回辞めた」と話してくれた。

そこから2年間のブランクをへて、俳優として復帰。10年たって、今度はプロデューサーと監督に初挑戦。2年間の空白がなければ、単なるイケメン俳優だったかもしれない。まぁ、それはそれでいいと思うが(笑い)。俳優業に“節”を作ったが故に、いろいろと考えることもできて、新しい挑戦への意欲がわいたのだろう。

そして、もう1つは映画「YOKOHAMA」の宣伝統括を務める叶井俊太郎さんのことだ。叶井さんは、今年2月16日に56歳で膵臓(すいぞう)がんで亡くなった。映画配給エクストリームの名物宣伝マンで、一昨年の夏に余命半年を宣告されながら、抗がん剤治療や手術を拒否して仕事を続け、1年8カ月も生き抜いた。

中村と叶井さんが出会ったのは去年3月。叶井さんが、闘病しながら仕事を続けていたときだ。撮り終えていた「YOKOHAMA」の話をすると、叶井さんは作品のジャンルも確かめずに宣伝を買って出た。

中村は「まだ何も見てないのに『ちょっと俺やるよ』って言ってくださったんです」と振り返る。2001年(平13)公開のフランスの恋愛映画「アメリ」を、よく見ずに「エイリアン4」の監督の作品だからホラー映画だと思って買い付けた叶井さんらしい思い切りだ。「アメリ」は興収16億円の大ヒットになり、叶井さんは業界の寵児(ちょうじ)になった。

叶井さんは亡くなる前に、どんどん前倒しで仕事を進めていた。「死んでも自分の関わった作品の公開の時には戻ってくるから」と言っていた。

「叶井さんの“血”が通っている映画になったことが、うれしいですね。幸せです」と笑顔を見せる中村の話を聞きながら、2人のかたわらに叶井さんが立っているような気がした。

叶井さんは出演者や監督のインタビューを依頼して来る時に、細かい条件を付けなかった。公開日より前に出してくれればと言うだけで、スペースの大きさなど全く気にしなかった。映画が公開されてからの客の入りも、あまり気にしていなかったようだ。

それでも映画「YOKOHAMA」は、お薦めしたい。不条理な世界を描いた、違ったテイストを持った3つの作品が、横浜が舞台という共通項で結ばれる。それぞれの作品のシナジー(相乗)効果で立派な世界観が確立している。ぜひ、映画館に足を運んでいただきたい。【小谷野俊哉】