東京の下町・浅草で町の風景にもなっている名物商店街が丸ごと台東区から立ち退き要請を通達され、困惑している。区も通常の道路としての機能を取り戻し、違法性のない状態にしたい思いが商店側と認識のすれ違いを起こしている。着地点の見えない原因は「アイデア区長」と呼ばれた人情熱い台東区の元首長が44年前に発したひと言にあった。

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「そんなもんはいらない」という約束手形が、もつれた糸の発端だった。

東京・浅草にある商店街「伝法院通り商栄会」(全32店舗)が存続の危機にさらされている。台東区から「本来は道路であるべき場所なので店舗を撤去してもらいたい」との通達を受け、区側と話し合いの席を持とうとしたが、ここにきて、弁護士を間に立てられているため「直接言葉のやり取りができない」と主張している。

そもそも区道の上になぜシャッター付きの店舗を持てるようになったのか?

1977年、伝法院前にあった台東区役所を上野駅前に移転する際、旧区役所となった建物を文化発信できる浅草公会堂として建て替える計画が持ち上がった。周辺再開発事業として伝法院に接するように密集し区画を設けていた露天商にシャッター付きの店舗を作る計画が持ちかけられた。当時の区長の内山栄一さんからの提案だった。

新店舗は各店ごとに出資して店舗代金は当時で70万~95万円だったという。商栄会側も土地使用料について支払う意思を見せたが、冒頭の内山さんの鶴のひとことで“公認”されたような状態となった。商栄会と向かいの洋服の老舗「マルミ洋品店」の牛島達雄さん(81)は「まさか道路上とは思わなかった。昔から普通にお店だという認識。ちゃんと真面目に商売するし、道路も広くて困っていない」と首をかしげた。

区道路管理課では「なぜ内山元区長が道路上なのに建物の建築を許したのか記録も残っていない。法律上は何も建てられないはず」と説明し「ただ、観光資源としての価値は分からないので今後は包括的に考えていく必要はあるとは感じる」と述べた。

浅草のある商店主からは「家賃のないことは不公平を感じる」との意見も出ているが大半は商店の存続には肯定的だ。さらには「内山元区長が100歳で亡くなったのは2012年で、区が商店撤去に動き出したのはその2年後。内山区長の口約束をつぶしにかかったかもね」と見る向きもある。

いずれにせよ、何も言わずに放置していた期間がある区と「浅草の文化を残すために頑張ってきた」という商店側の話し合いを、冷静にすり合わせる必要はありそうだ。【寺沢卓】

▼内山区長とは 区議4期、都議3期後に1975年(昭50)から91年まで4期台東区長を務める。78年、17年ぶりに隅田川花火大会を復活させた。81年にはコメディアン伴淳三郎の発案から浅草サンバカーニバルを実施。老朽化のため明治村(愛知・犬山市)への移築が決まっていた日本最古の西洋式音楽ホール「奏楽堂」を音楽家と建築家などの存続運動に耳を傾け83年に台東区に譲渡し上野公園に移設した。浅草伝法院近くに居住し公用車を使わず区長時代は毎日歩いて区役所に通っていた。