新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、世界中から野球が消えた。ただ、野球だけでなく、スポーツが持つ力は、数字では計り知れないほど強い。25年前、メジャーへの扉をこじ開けた野茂英雄、その後に初の日本人野手として数々の偉業を遂げたイチロー。偉大な先人は、いかにして強烈な逆風、高い壁を乗り越えてきたのか。苦境を脱する過程でも、常に前向きで、自らと向き合ってきたメジャーリーガーの生きざまを、今、あらためて振り返る。

95年6月、メッツ戦でメジャー初勝利を飾ったドジャース野茂英雄
95年6月、メッツ戦でメジャー初勝利を飾ったドジャース野茂英雄

1995年10月6日のナ・リーグ地区シリーズ、レッズ-ドジャース戦後。リーグ優勝決定シリーズへの進出を決めたレッズの主砲ガントは、ユニホームのまま、敗戦投手となった“ルーキー”右腕を探していた。帰り支度をしていた姿を見つけると歩み寄って言った。「ありがとう。今年のメジャーリーグはあなたに救われたんだ」。

両手で握手し敬意を表した相手は、27歳の野茂英雄だった。

この年のメジャーリーグは、約1カ月遅れて開幕した。前年の1994年、高額年俸を抑制するサラリーキャップの導入を巡り、オーナー側と選手会が対立、泥沼のストライキに陥った。シーズンは中断し、ワールドシリーズは中止。余波は翌年まで及び、キャンプになっても球音は響かない。やがてファンの失望は怒りに変わり「労使紛争が野球の楽しみを奪った」「野球の試合を見ると吐き気がする」とまで言われた。国民的娯楽、ベースボールの人気は地に落ちていた。

そんな危機を、東洋の島国からやってきた青年が救った。夢を追い、ドジャースにマイナー契約で入団した右腕は、5月にメジャー昇格を果たすと、6月3日のメッツ戦で初勝利をマーク。そこから怒濤(どとう)の6連勝を決め、スターがそろう球宴で先発マウンドに上がる快進撃をみせた。

ぶっきらぼうで寡黙な男が、マウンドで胸を張る。背伸びをするように両腕を突き上げ、打者に背番号が見えるほど横回転で体をひねり、再び縦回転で真っ向から投げ下ろす-。その“奇妙な”フォームは旋風を巻き起こし、このルーキー見たさに、ファンはスタジアムに足を運んだ。直球とフォークで強打者をなで切りにする姿は、ベースボールへの怒りを快哉(かいさい)に変えた。「サンシ~ン(三振)」と叫び、スタンドにはKボードが並んだ。子どもたちは、そのフォームをまねた。

野茂のもとには、日米の報道陣が押し寄せた。そんなメディアの前ではナーバスだったが、球場には誰よりも早く来て汗を流した。「本当に毎日が楽しい」と笑った顔は、天然芝と西海岸の青空によく映えた。人気、実力ともにドジャースの顔となった男は13勝を挙げ、チームの7年ぶりの地区優勝に貢献。初のシャンパンファイトを「これが夢。これがやりたかった」と喜んだ。

寂しくむなしい、球音のない世界を救い、ベースボールの人気をよみがえらせた「トルネード」。開幕が1カ月遅れた1995年のメジャーリーグ。野茂の背中に“スポーツの力”を見た。【元ロサンゼルス支局=南沢哲也】

95年6月、メッツ戦でメジャー初勝利を挙げラソーダ監督(左)と握手を交わす野茂英雄
95年6月、メッツ戦でメジャー初勝利を挙げラソーダ監督(左)と握手を交わす野茂英雄

この年の開幕は4月25日。試合数も短縮されて144試合だった。野茂は28試合に先発し13勝6敗。191回1/3を投げ、236奪三振で新人王、奪三振王に輝いた。

だが海を渡る前、野茂は“裏切り者”と呼ばれていた。(つづく)