ロッテ石垣島キャンプが無観客で行われた。06年に八重山商工の甲子園初出場でお祭り騒ぎになった“野球の島”は、今年は実に静かだった。ロッテ大嶺祐太投手(32)をはじめ、当時の島の主役たちは15年が過ぎた今、何を思うのか。

17年2月、石垣港離島ターミナルにある具志堅用高像と同じポーズを決めるロッテ大嶺祐太
17年2月、石垣港離島ターミナルにある具志堅用高像と同じポーズを決めるロッテ大嶺祐太

石垣島には毎年2月に帰る。到着しバスから眺める故郷は、変化があったとしても微々たるもの。島を離れ15年目。今年は決定的に違う。観光の島に観光客がいない。大嶺は驚いた。

「初めての感じなので、正直びっくりしている部分もあります」

ありますけど…と続け、声を少し落とした。

「観光客が来ないと仕事できない人たちもたくさんいるので、すごく大変だと思います。自分の周りは漁師が多いので。お店が開いていないと魚をとってきても買うお店がないし、競りに出しても安いと言っていたので…」

夏には感染が拡大し始め、ずっと心配していた。この2月はホテルと球場の往復だけ。母なる大地はいつもより手狭だった。

大自然で育った。祖父武弘さんは漁師。幼少期から、夏休みにはいつも一緒に船に乗った。「おじいちゃんは釣りというか、潜って網を仕掛けてとるのが専門なので。それを手伝って」。ミーバイにグルクン。魚が掛かるまで時間がかかる。亜熱帯を好きなだけ泳ぎ回り、大漁を待った。

透き通る海で大きくなった少年はグラウンドでも強かった。小中高と伊志嶺吉盛監督の厳しい指導を受けた。大声がぶつかり合い、高め合い、小学生の頃から実績は抜群だった。「夏休みになると1週間は大会でどこかしらに行ってましたね」。中学硬式の「八重山ポニーズ」では世界大会3位に輝いた。小学校の遠足は竹富島、修学旅行は沖縄本島。普通なら島外に出る機会はそう多くないのに、祐太少年の海の向こうは一気に広がった。

甲子園で大嶺祐太の名を全国区とし、プロ野球選手として上京した。良いこともそうでないこともあって、もう15年になる。

「15年ですか…。考え方はだいぶ変わったんじゃないかなって思います。石垣島にいたら、1人では行動できないってことじゃないですけど、15年前までは誰かしらと常に行動してたんで。今は、年を重ねたのもありますけど、1歩引いているというか、自分も自分のことを考えるようになったかなって」

人と人とが濃密な離島で18年、決してそうとは言えない都会で15年目。2000キロ近く離れた洋上の故郷は、外からどう見えるのか。印象はずっと同じだという。ひと言で「あったかい」とまとめる。

「人も気候も。全てにおいて、こう、親身になってくれるまではいかないけど、ちょっと誰かに相談しただけで、自分が求めている以上のことをやってくれるような気がします」

それでも「五分五分ですかね」というのが素直な思い。「島のいいところもありますし、東京は東京でいいところもありますし…。どっちがいいか分かんないっす」。ヤンチャに駆け回っていた少年は、人生いろいろ経験してきて、とてもあったかい顔をする。

トミー・ジョン手術の影響は消え、この時期から投げられることに喜びを感じる。沖縄本島の練習試合で先発するため、島にいたのも2週間ばかり。祖父母に孫の顔を見せることも今年はできなかった。

「がんばれよ」

海の男の、短くて熱い言葉に押されて、今年も見慣れた景色を後にする。風が強い島。搭乗前日に天気予報を念入りにチェックする習慣は、世界がどんどん広がった少年時代のままだ。【金子真仁】(つづく)