7-29。東海大山形は85年夏の甲子園2回戦(初戦)で、KKコンビを擁して今大会で優勝するPL学園(大阪)に歴史的敗戦を喫した。2本塁打を含む毎回安打毎回得点で許した29失点は、今も史上ワースト。実力差以上に開いた点差の背景に、東海大山形のエース藤原安弘(3年)の故障があった。3年夏の県大会では右肘の痛みを隠しながら登板を続け、甲子園本番までにはパンクしていた。22点差の大敗は、痛みをおして投げた結末だった。

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 当時29歳の青年監督だった滝公男(62=現山形学院監督)は目を疑った。山形大会を制した興奮が冷めやらない翌日の練習。ふと見た藤原の右肘が2倍ぐらいに腫れ上がっていた。

 滝 藤原が肘痛いって言うから見てみると、パンパン。倍ぐらいになっていた。その時点で甲子園での勝利はないなと思った。勝つという状況ではなかった。

 藤原は兵庫・姫路市から山形にやってきた野球留学生。1年夏からエースとしてフル回転していた。

 藤原 1年の夏からずっと痛くて、最後の予選も我慢して投げた。ベスト8ぐらいから右肘が、こぶになって。当時は監督に痛いと言えるような時代じゃない。腫れた右肘が隠れるように、七分袖のアンダーシャツで投げていた。

 甲子園入りしてからは藤原の右肘の状況を悟られまいと、報道陣にはキャッチボールの写真すら撮らせなかった。病院、整骨院、指圧、できる治療すべてを施したが、駄目だった。

 藤原 痛くて飯も食えない。右肘に水がたまって剥離骨折だった。

 試合当日のブルペンが、山形大会決勝以来の投球だった。甲子園でも七分袖のアンダーシャツでマウンドに上がった先発藤原に、強力PL打線が襲いかかる。初回、2番安本に先制本塁打を打たれると、5回までに20失点。6回からはライトに引き下がった。

 藤原 痛くて肘が使えないから、120キロも出ない。スナップが利かなくて、肩だけで投げている状態。変化球のサインに首振って、直球しか投げられない。打撃マシンよりも最悪やった。痛み止めを飲んで気持ち悪いし、試合中には胃けいれんを起こしていた。

 自身2度目の甲子園で滝も、辛酸をなめた。故障していても、藤原を先発させるという結論は揺らがなかった。9回には清原から2連続押し出し四球を選び、意地で7点は奪い返した。

 滝 藤原がいたから甲子園に行けたチーム。いなかったら話にもならない。藤原の状態が高校3年間で一番悪い中で、目指していた甲子園で試合をすること自体が悔しかった。でもこれだけ点を取られたのも現実。普通ならみっともない、という気持ちが出てくる試合展開なんだけど。子供たちも苦痛というか、楽しむことなんてできなかった。でも点を取って頑張っている姿を見て、自分も最前列に立って腕を組み続けた。

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 卒業後、藤原は地元の社会人野球・川崎製鉄神戸(兵庫)に戻り、内野手に転向。補強選手を含めて都市対抗に6度出場し、全日本にも選ばれた。30歳で引退後、兵庫県内にある家業の理髪店を継ぎ、屋号を「バーバーショップ・エース」にあらためた。50歳になった今でも右肘には痛みが残り、真っすぐ伸ばせない。

 藤原 子供の時からずっとエースやったしね。マウンドに上がったら、痛いとか言ってられない。あの当時の痛さを表現してくれと言われても無理。投げなあかん。そういう使命感があった。気持ちだけや。(敬称略)

【高橋洋平】

▽85年夏の甲子園2回戦

東海大山形(山形)

001 000 015 7

254 362 52X 29

PL学園(大阪)

【東】藤原、安達―武田【P】桑田、井元、小林、清原―杉本 [本] 安本、内匠(P)

 ◆東海大山形-PL学園戦で達成された新記録(当時) 史上初の毎回得点、最多得点29、最多打点27、最多塁打45、最多安打32、個人最多安打6(笹岡)、チーム最高打率5割9分3厘。

 ◆山形の夏甲子園 通算23勝57敗。優勝0回、凖V0回。最多出場=日大山形17回。

85年8月、力投する東海大山形先発・藤原安弘
85年8月、力投する東海大山形先発・藤原安弘
現在は山形学院で指揮を執る滝監督
現在は山形学院で指揮を執る滝監督