明徳義塾を率いる馬淵史郎は「松井の5敬遠」で世間から猛烈なバッシングを浴びた。受理されなかったが、迷惑をかけたことで辞表を提出。その後、02年夏の全国制覇を成し遂げるまで、批判的な投書は収まらなかったという。92年のメンバーの1人で、済美の監督・中矢太は当時のことをよく覚えている。スタンドから「殺すぞ」というヤジがあった。試合後、ベンチ裏で座っていると、隣のチームメートが真顔で言った。「球場を出たら、ピストルで撃たれるぞ。バッグを胸に抱えていこう」。殺気立った雰囲気の中でバスに乗り込んだ。西宮市内の宿舎では部屋のカーテンは閉め切られた。隙間から外をのぞけば、報道陣が大勢いる。事態の大きさを知った。馬淵は「俺の徳のなさ」と自嘲気味に言うが、中矢は首を横に振った。

中矢 勝ったので、あの作戦は正しかった。(周囲は)汗と涙を求めるが、僕たちは勝ちたいと思って練習している。当時のチームは一枚も二枚も格下だった。ああいう方法で番狂わせできたのは、それも四国の野球だと思う。僕たちは、いい意味で馬淵信者でした。先生の人柄です。話術があり、ユーモアがある。魅力的な人です。

阿部企業の時もそうだった。面倒見がよく、義理堅い。激しい気性を持つが、選手はついてきた。

しかし、現実は厳しい。92年夏を最後に、勝ち運から見放される。夏の高知大会は3年連続で決勝にさえ進めない。甲子園が遠ざかった。「あれ、なんでやろな…」。馬淵は首をかしげる。5敬遠の“事件”は、意識しなかったが、勝てない。猛練習は激しさを増す。選手を帰省させず、正月も返上して練習した。3年間、1度も甲子園に出られなかった。再び辞表を提出。受け入れられずに、95年の秋になった。

馬淵 あの頃はつらかった。正月は食堂も休みだから、女房に飯も作らせた。それでも勝てない。その時に思った。野球に絶対はない。日本一の練習をしたから、日本一になれるわけじゃない。量も大事だが、質のいい練習も必要だ。過ぎたるは及ばざるがごとし。それが3年間で学んだことだ。

宇和島東、済美を率いた、亡き親友の上甲正典(故人)からも、不遇の時に励まされた。当時もらった「本田宗一郎の一日一訓」は今も大切に持っている。冬の時代に自分を見つめ直した。96年センバツに出場すると、勝ち運を再びつかんだ。その先に02年夏の全国制覇があった。

寄せては返す波のように、好不調を繰り返す。それが馬淵の野球人生だ。05年夏には戦後新記録となる8年連続の甲子園出場を決めた。しかし部内不祥事が発覚し、出場を辞退。馬淵は監督を辞任し、謹慎処分を受けた。監督復帰までの1年間、グラウンドには足を運ばず、野球部以外の生徒募集で県内を回るなど教頭職に励んだ。波乱の中を突き進み、馬淵は人生の真理を追究している。今、選手にこんな話をする。

「棚からぼた餅と言うが、突然幸運が降りてくると思うやろ? それは違う。餅が落ちた時に、一番棚に近いやつが拾える。棚に近づける努力をせえ。いつ落ちてくるか分からんと、後ろで腕組みしているやつに幸運は来ない。俺はいつ落ちてきてもいいように努力している。そうすれば、拾えるわけよ」

馬淵は昨秋に明治神宮大会を制した。夏の甲子園、国体に続き、3つ目の頂点だった。甲子園通算50勝に王手をかけて臨む今年の選抜。ぼた餅をつかむために、選手とともに棚に向かって、全力で腕を伸ばす。(敬称略=おわり)【田口真一郎】

(2018年2月26日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)