10月16日、日曜日。監督就任の記者会見は大阪梅田の高級ホテルで開かれた。午後2時からの会見、新聞社の取材は各社1人のみ。コロナ禍もあり、球団サイドも感染対策を万全にしていた。

日刊OBで、スポーツライターという肩書では、取材に参加できない。だから会場に入るところで待った。球団関係者が待ち構える中、チャーターの車がホテル玄関にすべりこんできた。はたして岡田彰布はどんな表情で、晴れ舞台に立つのか。すると僕を見つけ「エッ、来てたんや。どないしたん? また連絡するわ」。岡田はいつものオカダだった。

2004年から2008年までが阪神で、2010年から3年間はオリックスで監督を務めた。その中で「岡田監督」にまつわる事実として、思い出深いのは2005年のリーグ優勝でも、2008年の世紀の大逆転V逸でもない。それは2012年、オリックスの3年目だった。

「カタッ、カタッ、カタッ」と監督室のファクスが動きだした。それを読み終えると、岡田は試合前にユニホームから私服に着替え、球場をあとにした。ファクスの中身は「もう試合に出なくていいですから」というものだった。その時、岡田は解任を受け入れていた。しかしシーズン最後まで指揮することを球団側に伝えていた。それが紙切れ1枚での途中退任要請…。

そのあと、監督が自分のチームの戦いを居酒屋でテレビ観戦するという摩訶(まか)不思議なことが起きた。知人、友人が納得がいかないと声をあげる。すると岡田は例の調子で口を開いた。「なんで怒ってるん? 紙1枚で辞めろがおかしい? そんなん、オレらは契約社会に生きているんよ。辞めろと言われれば辞める。これが契約ってもんやろ」。周囲のエキサイトぶりとは正反対。岡田はしみじみと退任通告を受け止めていた。

あれから10年、また契約社会に戻ってきた。それも阪神で、である。既に監督要請を受諾した時点で覚悟は決まっている。あと1カ月少しで65歳になる。時代に逆行しているとの声もあるし、ブランクが長いという指摘もある。しかし岡田は常に「監督目線」でゲームを見つめ、いつ何時、要請があってもいいような準備を続けていた。

試合を見る時、ダラけた格好で見ることはなかった。背筋を伸ばし、真剣にゲームを追った。「そんなん、当たり前やろ。寝そべって見たりしたら、チームに失礼やし、野球に申し訳ないわ」。野球大好きのオヤジの考え方は昔のままなのだ。

今回の監督就任にあたり、数多くの風評が飛んでいた。「球団との摩擦、現場と球団、うまくいかないのでは? 岡田の意固地な性格が出て、モメるに違いない」とか。それを岡田に直接、問うたことがある。「オレは前回の時、モメたとは思ってないし、意見や気持ちをぶつけ合って、チームが強くなれば、と考えるだけよ。わざわざモメるようなことはせんよ」。実にアッサリと答えている。

現場に戻ってきて、気が付けば12球団で最年長の監督になっていた。体は不安がない。気持ちは変わった。「これからの阪神、どうなっていけばいいのか…。コーチも若い人間を入れて、すべてでオール阪神でかかっていくしかないやろな」。こんなことを語っていた。

そんな中、ヘッドコーチを頼んだのが平田勝男である。2004年、星野仙一は岡田のプランに驚いた。「平田にユニホームを、と思っていたけど、ヘッドコーチって、大丈夫か?」と苦笑いさせたが、その翌年、リーグ優勝という形で正解を出した。

平田とは汗と汗のつながりがある。1985年、日本一になったシーズンの春のキャンプ。岡田は外野から二塁にコンバートとなった。そこで生まれた二遊間。平田とはコンビネーションを完璧にするため、日が暮れるまで安芸のサブグラウンドで併殺プレーを反復した。

流した汗は報われた。簡単に併殺を取れる二遊間になった。こんな二遊間を作ることが今のチームに求められる。「打つ、投げるは生まれ持った資質が重要。でも守りは違うで。練習すればするほどうまくなる。これは絶対よ」。11月からの秋季キャンプ。まずは監督、岡田は強い二遊間を作る。平田とともに…。漫才ではなく「オール阪神」の力をまずは見てみたい。(敬称略)【内匠宏幸】(ニッカンスポーツ・コム/野球コラム「かわいさ余って」)

就任会見でガッツポーズをして意気込む阪神岡田新監督(撮影・上田博志)
就任会見でガッツポーズをして意気込む阪神岡田新監督(撮影・上田博志)