テレビから聞こえてきた勇壮なブラスバンドの響きは、今も忘れない。1986年夏の甲子園大会決勝。きゃしゃなエースが黙々と打者を打ち取り、主将がうれし泣きで顔をくしゃくしゃにしていた。初優勝を祝うアルプススタンドからの演奏が勇ましく、素晴らしく、実況アナの解説で世の中に「金賞バンド」なるものがあるのを初めて知った。

86年夏、甲子園で春夏通じて初めて頂点に立った天理(奈良)。そのチームを率いていたのが、9日に75歳で亡くなった橋本武徳監督だった。ずんぐりした体つきに、一見コワモテの風貌。ただ取材での会話は穏やかで、ぎらぎらした勝利への執念のようなものは感じられなかった。甲子園のベンチで選手の士気をあげる際の声がけも「ぼちぼち行こか」のセリフ。2度の全国制覇時は担当しておらず、勝負師の本当のすごみを知り得なかっただけかもしれない。ただ、3度にわたってチームを救った不思議な力には目を見張った。

11年6月。県内最強と言われながら、天理は部内暴力で奈良大会を辞退し、監督、野球部長が辞任した。当時66歳の橋本元監督が3度目の指揮を執ると聞いて、驚いた。大ベテランの指導者にまたチーム再建を託すのか、という驚きだったが、経歴を調べるうちに過去2度の監督就任も前職の辞任を受けてのものだったと知っていっそう驚いた。

過去2度は、いずれもチームを全国制覇に導いた。21年ぶりの采配となった11年秋も、橋本天理は快進撃を見せた。奈良県予選は3位に甘んじたが、12年のセンバツ切符をかけた近畿大会準々決勝で大阪桐蔭と対戦。藤浪晋太郎(阪神)-森友哉(西武)の超高校級バッテリーを擁し、秋の近畿の優勝筆頭候補だった大阪桐蔭を逆転で破ったのだ。

エース中谷佳太が背中の痛みの影響で、5回3失点降板。だが2番手の山本竜也が6回からの4イニングを1失点で投げ抜き、大阪桐蔭に再逆転を許さなかった。ここまでの公式戦登板は2試合、わずか4イニングの山本を大一番でマウンドに送った橋本監督は「起用を迷っていては、選手は育ちません」と言った。最強のカベを崩し、天理は近畿の頂点に駆け上がった。

「橋本さんには、不思議な勝ち運がある。必死にならなくても、勝ちがついて回る」。そう言って首をかしげた天理関係者がいたが、この腹のくくり方こそ勝ちを引き寄せる力ではなかったか。

不祥事に沈んだ天理を復活させた橋本監督だったが、同時に相手チームのエースにも大きな影響を及ぼした。天理に逆転負けした試合後の、大阪桐蔭・藤浪の青ざめた顔は今も忘れない。2年生エースとして臨んだ11年夏の大阪大会決勝で、前半のリードを守れず、東大阪大柏原に逆転負け。涙にくれた夏の分まで、と臨んだ秋、大阪では優勝しながら近畿は8強どまり。センバツ切符を確定させられず「藤浪は勝負弱い」という一部周囲の見方をはね返せなかった。

「いい投手より、自分は勝てる投手になりたい」と臨んだ翌春センバツ。初戦で大谷翔平を擁する花巻東(岩手)を撃破し、エース藤浪の12年は始まった。甲子園春夏連覇につながった道のりで、天理戦の苦い思い出は分岐点になっていた。【遊軍=堀まどか】

(ニッカンスポーツ・コム/野球コラム「野球手帳」)

2011年11月6日 近畿大会で初優勝し、中道主将を先頭に場内を行進する智弁学園ナイン
2011年11月6日 近畿大会で初優勝し、中道主将を先頭に場内を行進する智弁学園ナイン
2011年11月3日 近畿大会準々決勝の天理戦でユニホームを血で汚しながら力投した大阪桐蔭・藤浪
2011年11月3日 近畿大会準々決勝の天理戦でユニホームを血で汚しながら力投した大阪桐蔭・藤浪