1988年(昭63)10月19日。川崎球場で行われたロッテとのダブルヘッダーで奇跡の大逆転優勝を目指して戦った近鉄の夢は最後の最後で阻まれた。あれから30年。選手、コーチ、関係者ら15人にあの壮絶な試合とはいったい何だったのかを聞いた。

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36歳にして未体験の優勝にもっとも接近し、阻まれた。クールなヒットメーカー、新井宏昌(66)にとっての「10・19」は長いプロ野球人生でも忘れられない1日となった。

第2試合9回表2死二塁。三塁線を襲った打球はロッテ水上にダイビングキャッチされ、一塁の微妙な判定もアウト。決勝打は幻となった。

新井 打った瞬間、やった! 抜けた! そう思いました。それを8回から三塁に入っていた水上くんに好捕された。しかも一塁もアウトの宣告です。我々はベースを踏んだ感覚と一塁手が捕球する音でアウトかセーフか分かるのです。今で言うリクエスト制度があれば完全にセーフだったと思います。自分の個性は目立つことができないプレーヤー、やっぱり自分はヒーローにはなれないのか、と思いました。

南海監督だった野村克也に見いだされプロ入り。レギュラーを確保するが、やがて壁が訪れる。近鉄に移籍し、打撃コーチの第一人者、中西太との出会いが野球人生を変えた。

新井 中西さんに打撃を直していただき、野球人生の転機になりました。近鉄移籍1年目に岡本監督のもとで129試合目まで優勝を争いました。そして2年目に個人的には最高のシーズンになるのですがチームは最下位。このまま優勝を経験できないまま終わってしまうのか。レギュラーで出ている間に優勝しなければ何の意味もない。年も年でしたから。あの年のあの日は最大のチャンスだったわけです。ショックの大きさで試合翌日から2週間ほど自宅で寝込みました。

87年、シーズン最多184安打で首位打者。優勝だけが望みだった。仰木体制となった88年はよりフォア・ザ・チームに徹した。デービスが大麻事件で途中退団すると空いた一塁も志願した。

新井 そうすることで打撃のいいベテランや若い選手を外野で使ったりできる。チームの選択肢が増えますから。

第1試合もスタートは2番一塁だった。だが、尽くしても尽くしても届かない。「いつも冷静なあの新井さんが泣かれていたのにはビックリしました」と明かしたのはPL学園の後輩でルーキーながらベンチ入りしていた加藤正樹だった。

新井 高校時代の甲子園決勝で負けたときも泣きませんでした。もし涙を流したとすれば宿舎に戻ってからではないでしょうか。もっとも充実して、もっとも優勝したかったシーズンでしたね。

東京都内の宿舎ホテルに用意されていた祝賀用の会場は残念会として深夜にささやかな宴(うたげ)が催された。そして仰木監督のねぎらいの言葉などに多くの選手が涙していた。新井はその夜の涙を否定することはなかった。人前で見せた唯一の涙は翌年のリーグ優勝につながり、引退後は仰木監督のもとで名コーチへの道を歩んだ。来季は11年ぶりにソフトバンクで若手指導に取り組む。(敬称略)

◆新井宏昌(あらい・ひろまさ)1952年生まれ。大阪府出身。PL学園、法大を経てドラフト2位で南海入団。86年近鉄移籍。通算2038安打。引退後はオリックス2軍監督、ダイエー、広島などでコーチを歴任。来季からソフトバンク2軍打撃コーチ。