日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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中日新監督の立浪和義が19年に野球殿堂入りした会見で「もう1度ユニホームを着て戦いたいと思っています」と監督の座に就くことに強い意志をあらわにしたことを思い出した。心に秘めた執着心を打ち明けたが、それでも監督に就任するまでに3年がかかった。元中日監督の山田久志は「どんな監督になるかはわからんが、愚痴は言わんし、自分にも厳しいからね」と想像を膨らませる。

2001年(平13)、ヘッドコーチに就任した山田が、監督の星野仙一から立浪の起用法を持ちかけられる。本職の二塁だけでなく、外野に回るようになっていたベテランの処遇は、チームの懸案だった。

山田は「仙さんはレギュラーとしては終わりに近づいているという判断をした。もう限界かもしれないとも話した」と当時を振り返る。だが、その星野が電撃的にポスト野村として阪神監督に就任してしまう。

中日で星野の後任を託された山田は立浪について「レギュラー扱いからはほど遠かった。でも監督になって、本人にはもう1回頑張ってみないかと話した」と奮起を促し、本格的に三塁転向を決断するのだった。

当時の「4番三塁」はゴメスだったが、ヒザの手術のため途中帰国し、再び戦列に戻ってくることはなかった。チームは二遊間に井端弘和、荒木雅博を固定し、福留孝介を中堅にコンバートした転換期だった。

「4番がいなくなって、ある食事の時に、(佐々木)恭介(ヘッドコーチ)に相談すると、『孝介は3番に慣れてきたので、孝介のためにも4番に上げるのはやめてください』といわれた。苦肉の策どころじゃないよ。タツに賭けるしかなかったんだ」

使い手によって、くすぶっていた男はよみがえった。03年ゴールデングラブ賞、落合博満が監督になった04年はベストナイン賞に選ばれた。高卒1年目からレギュラーを張ったベテランは、転機に差し掛かったところで、輝きを取り戻した。

「ああみえて頑固だからね。これと決めたら曲げないから、若手の守備が下手でも使うんだろうな」。ビッグボスと対照的といわれてきた新監督の采配も、開幕からスポットを浴びる。(敬称略)