日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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オリックスの3年連続パ・リーグ制覇は、名門阪急ブレーブスが1975年から4連覇して以来の快挙だ。中嶋聡が名監督に上りつめた。

あれは立春を過ぎ、柔らかな日差しを感じるようになった南国での出来事だ。2月の宮崎清武キャンプを阪急・オリックスOB会長の山田久志が訪れた。

キャンプ地を去り際、山田は監督室で中嶋にこっそり1枚の色紙を託している。そこには指揮官というより、大切な後輩に向けた思いがしたためられた。

 

中嶋監督へ

 

『実るほど、頭(こうべ)を垂れる 稲穂かな』

 

    山田久志

 

再び厳しいペナントレースに立ち向かう中嶋に直接、直筆のサインを授けるのだった。側にいた拙者には「おれの本心だから…」ともらした。

山田と中嶋。秋田県の同郷でも隣町で育った2人は、ただならぬ“縁”で結ばれている。鷹巣(たかのす)農林高からプロ入りする際、両親に“親代わり”を頼まれたのが山田だった。

阪急の大エースだった山田は、76年に26勝を挙げるなど4連覇にも貢献している。日本記録の12年連続開幕投手を務めた「史上最強のサブマリン」だった。

1988年(昭63)10月23日、西宮球場でのロッテ戦が自らの引退試合だった山田は、監督の上田利治に頼んで、2年目で駆け出しの中嶋を捕手に指名した。

その後、阪急からオリックス、西武、横浜、日本ハムと渡り歩いた最後の“阪急戦士”を、山田はずっと気にかけた。日本ハムの配慮もあり、中嶋の引退セレモニーでは札幌ドームにも駆けつけた。

お世辞抜きで達筆な山田は、サインに添え書きを求められると「栄光に近道なし」と座右の銘を入れることにしている。中嶋に残した金言にも、大先輩の深い思いが秘められた。

山田は「中嶋というより、チーム全体に伝えたかったことだ」と前置きして続けた。

「人は権力を握ると、自分が大きくなったと勘違いし、権力を振りかざすようになれば組織は間違った方向に行きかねない。独裁者でおれのやりたいようにやるんだと“裸の王様”になれば下もやりにくい。そうならないことを願っている」

巨人V9監督の川上哲治が10連覇を逃した敗因について、生前の自宅で「私の油断だ。戦力の下降はあったが、私が偉い監督になってしまった」と緩みを認めたことを思い出した。

山田はコロナ禍まで6年連続でオリックスの臨時コーチを務めた。伸び盛りだった山本、宮城ら投手陣にアドバイスを送ったが、それ以上にコーチへの指導を手がけた。

「稲穂かな」には米どころ、秋田への郷愁もにじむ。みちのくから誕生した大投手の、中嶋に伝えたかった無言の教えが間違いでなかったことは、有終の美が証明している。(敬称略)