信念貫き日本サッカーの発展に尽力/石井義信氏悼む

 元日本代表監督でJ1FC東京のアドバイザーを務めていた石井義信氏が26日に亡くなった。79歳だった。

 国立競技場に降る雨は日本サッカーの涙雨だった。87年10月26日、ソウル五輪(オリンピック)最終予選中国戦、アウェーで1-0と先勝していた日本は引き分けでメキシコ大会以来20年ぶりの出場が決まった。ライバル韓国が開催国で予選に出てこない最大のチャンス。しかし、結果は0-2。完敗で、五輪出場の夢も雨に流れた。

 チームを率いたのは、石井義信監督だった。その2年前の85年10月26日、国立競技場で韓国に1-2と敗れ、直後のアウェー戦も敗れてW杯メキシコ大会出場を逃した森孝慈監督の後を受け、守備的戦術でソウル五輪出場を目指していた。「つまらない」と批判されながら「日本がアジアを勝ち抜くため」と徹底した。

 GK森下(ヤマハ)DF堀池(順大)勝矢(本田)加藤(読売)中本(鋼管)MF西村(ヤンマー)都並(読売)奥寺(古河)FW水沼(日産)原(三菱)手塚(フジタ)。スタメンMF3人は本職が守備。当時日本最高の攻撃選手だった木村(日産)を代表から外し、守り抜くサッカーで五輪出場に迫っていた。

 「徹底して守り、速い攻めでスキを突く」。守備は自信があったはずだ。「引き分ければ五輪」で、サッカー界は五輪出場ムードだった。しかし、そんなスタイルだから、前半37分に先制された後は悲惨だった。攻め手がない。何もできなず、時間だけが過ぎた。

 涙雨は、出場を逃した悲しさだけではなかった。韓国ならまだしも、中国に五輪初出場を許した。それも何もできずに。満員のファンは日本サッカーの限界を感じていた。あまりに大きい失望感だった。「日本サッカーは落ちるところまで落ちた」と思えた。

 ただ、この試合は大きなターニングポイントになった。W杯予選で韓国に敗れた後、森監督は日本協会にプロ化を迫ったがかなわなかった。「アマチュア」として白羽の矢が立った石井監督も力尽きた。「このままではアジアでも置いて行かれる」という危機感が日本サッカー界を包んだ。

 翌88年、日本リーグの中に「リーグ活性化委員会」が設置される。プロ化を前提とした委員会には、石井氏も名を連ねた。プロへと一気にかじを切り、その5年後にはJリーグがスタートする。大きなきっかけが、雨中の中国戦だった。

 フジタ工業(後の平塚、現湘南)監督としてカルバリオ、マリーニョらを擁して超攻撃サッカーでリーグを席巻。代表監督を辞した後は、再び平塚で「湘南の暴れん坊」と呼ばれる攻撃チームを作った。「そりゃ攻撃的なサッカーは楽しいし、やりたいよ。ただ、相手があるから。勝つために最善の策をとるのが代表監督。たとえ、何と言われてもね」。そう話していた。

 メガネの奥の目は、いつも優しかった。しかし、さらに奥には自分の信念を曲げない強さがあった。信念を貫いて戦った五輪予選、結果的に惨敗がプロ化を早めた。そして、その中心でも石井氏は奮闘。サッカー界の発展に尽力した。日本サッカーの「前」と「後」を知るだけに、もっともっと聞きたい話があった。いや、聞いて後世に伝えなければいけなかった。【荻島弘一】