青森山田の黒田監督は、就任22年目の頂点に「悲願の初優勝です」と自ら切り出した。スタンドで優勝旗を受け取る教え子を見上げながら、涙が頬を伝う。選手権では初戦敗退から準優勝までを経験し「勝てない時期が続いて迷ったこともあったけど、取り組みが正しかったことを選手が証明してくれた。歴史に名を刻むことができた」と最北端Vに万感の表情を見せた。

 高校サッカーに人生をささげてきた。大体大を卒業後、地元北海道のホテルに就職したが、指導者を志して3カ月で辞めた。ガソリンスタンドで働いて日銭を稼ぎ、94年に青森山田のコーチと寮監、95年に監督昇格。「時効でも言えないかな」と笑うほど素行が悪かったチームを、いびつな台形のグラウンドで教え始めた。勧誘で中学生に頭を下げても「山田なんか行くかよ」という時代。他県に足を運んで苦労して集めた選手や、ブラジルから来た2人の留学生も決してトップレベルではなかった。それでも勝たせたい。自身も優勝5度の国見・小嶺監督を目標に、大型免許を取得。冷房がなく車内温度が52度にも達したというバスを運転して遠征を重ね、ひと夏で7200キロも走破した。

 6年目の00年度に選手権4強、11年目の05年に全国高校総体で初優勝。中高一貫システムを構築し、06年には「プロに負けない指導を」とS級ライセンスも取得した。輩出JリーガーはGK広末で32人目。県内320連勝の無敵軍団に育て上げた一方、選手権は16強止まりが9回あった。「黒田は、雪国のサッカーは全国で勝てない」。そんな陰口に対し「雪が人間を強くする」との反骨心で対抗。帝京・古沼監督に何度も名刺を切って名前を覚えてもらい、会食を通して指導法を学んだ。鹿児島実・松沢総監督の自宅を訪ねた時には「自分を信じてやるだけだ」の言葉に勇気づけられた。そんな名将たちに46歳で肩を並べ「雪国で信念を貫いた結果が今回の優勝。身をもって証明できた」ことが心からうれしかった。

 09年度には鹿島柴崎らを擁して準優勝したが「初の決勝で、緊張とプレッシャーで地に足がついてなかった」と振り返る。当時の苦い経験を忘れず5-0で完勝し「リベンジの日本一。本当に長かったけど、素晴らしい日を迎えられた。この先10年、いいことが何もないかもしれないけど」と怖くなるほどの夢だった。

 00年度の初4強時はゼロだった地元選手も、今年は北海道・東北出身者が先発11人中8人に。地域に根ざし、豪雪の下に根を張った黒田監督が、ついに歓喜の花を咲かせた。【木下淳】