湘南ベルマーレが、YBCルヴァンカップ決勝で横浜F・マリノスを1-0で下して優勝した。ベルマーレ平塚時代の99年に親会社のフジタが経営から撤退し、00年に市民クラブ湘南ベルマーレとして再出発して以降、J1リーグ戦を含めた国内3冠の一角を初めて獲得した。1996年(平8)に入社し、存続危機からルヴァン杯初Vまでを見つめてきた名物社員・遠藤さちえさんのインタビュー2回目は、J2で10年戦い続けた苦闘と、J1に復帰後も選手を引き抜かれ、J2との往復を繰り返す“エレベータークラブ”からの脱却を図る湘南が下した決断について語る。

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99年にフジタが経営から撤退したベルマーレ平塚は、翌00年に市民クラブ・湘南ベルマーレとして再出発したが苦闘が続いた。降格したことで観客動員は激減。Jリーグに参戦初年度の94年は1試合平均1万7836人で、J2降格が決まった99年ですら7388人を動員したが、00年は4969人に減少。経営も厳しく“暗黒の時代”と呼ばれた。菅野将晃監督が率いた07年、08年は昇格争いに絡むも6位、5位とあと1歩、及ばなかった。

遠藤さん 苦しかったですね。なかなかJ1に上がる兆しが見えなかったのは、つらかったですし、経営的にも大変でしたね。ある意味、綱渡りのような感じで、フロントの人数も、フジタが親会社の時代は40人近くいたのが、半減どころか…9人くらいでしたね。1人、何役もやって…でも、今、思うと仕事量、状況も大変でしたが、みんなで明るく楽しく、家族のようにやっていました。

そんな湘南を支えたのは、真壁潔会長(56)だった。同会長は造園会社「湘南造園」経営の傍ら、平塚市商工会議所青年部の一員として「ベルマーレ存続検討委員会」のメンバーになり、市民クラブへの移行に尽力。00年に取締役、04年に社長、14年には会長になったが、これまで無給でクラブ経営に携わってきた。遠藤さんは同会長のパワーが全てを変えたと感謝した。

遠藤さん もちろん、うまくいかないこともたくさんあって、大変な時期も長かったですけど、クラブに誇りが持てないとか、どうなっちゃうんだろうと思うことは1回もなかったですし、迷うこともなかったですね。それは真壁さんのおかげですね。リーダーシップ…感じる情熱に、我々スタッフも応えないわけにいかない、というのがありますね。周りは暗闇だったかも知れないけれど、迷うことはなかったし、光は、いつも見えていました。苦しかったけれど…あそこに向かっていけばいいんだというのは常にありました。

真壁会長は、統合型スポーツクラブへの第1歩として、01年にビーチバレー、翌02年にトライアスロンチームを立ち上げ、同年にはJクラブ初の試みとしてNPO法人湘南ベルマーレスポーツクラブを設立した。そのチャレンジ精神に社員は触発されたという。

遠藤さん 誰もやっていなかったことを始めるのはエネルギーもいるし、大変だったと思うんですけど、新しいチャレンジも、みんなが一緒に楽しんでやっていました。一生懸命やらないと、楽しむことも出来ないということを、みんな学びました。「何かやっていいですか?」と聞いたとして、真壁さんがダメだと言うことはないし、逆にチャレンジしないことを叱られます。そういう環境だから、何とか前向きになれたというのがあります。

真壁会長は並行して、育成年代の強化にも注力した。その中、04年に就任した大倉智強化部長(現東北社会人リーグ・いわきFC社長)から、下部組織の強化に必要な指導者として推薦されたのが、ルヴァン杯初Vに導いた曹貴裁監督だった。

真壁会長は、06年からは予算の拡大路線を展開し、J1復帰に本腰を入れた。3年目の09年には、OBで前年の08年に北京五輪代表を率いた反町康治監督を招聘(しょうへい)し、J1アルビレックス新潟から同監督の愛弟子のGK野沢洋輔、MF寺川能人、さらに京都サンガを退団したFW田原豊と積極的に補強し勝負をかけ、3位で11年ぶりのJ1復帰を決めた。

ただ、翌10年に再びJ2に降格すると、11年も復帰できず反町監督は退任。同監督の下でコーチだった曹監督が12年に就任し、同年、J1昇格に導いたが1年で降格を余儀なくされた。

遠藤さん 曹さんは中学、高校年代の指導をして育成組織改革をしてから、反さんと一緒にトップチームを指導したので、監督になることへの不安はありませんでした。でも、周りから言えば、曹さんは監督経験もないし12年は本当に期待されていませんでしたが、選手は躍動し、一致団結して最終節で昇格しました。あれもすごかったですね。でも、やっぱり日本のトップリーグはそんなに甘くはないし、結局はJ2との行ったり来たりになっちゃいました。でも13年は、見ている人が面白いと思ってくれるような「ノンストップフットボール」をやっていたと思います。降格しましたけど、ある意味、J1に一石を投じるような戦いはしていたと思いました。

曹監督は下部組織から鍛え抜いたDF遠藤航(現シントトロイデン)、MF永木亮太(現鹿島アントラーズ)らを擁し、縦への速い攻撃を軸に連動し、走る“湘南スタイル”で14年に史上最速で昇格。Jリーグを席巻した一方で遠藤、永木ら主力が、他クラブに引き抜かれるジレンマがあった。

遠藤さん 14年はJ2で記録的な優勝をしましたが、そうなると思いました。選手が力を発揮したと思ったからです。活躍した選手が移籍してしまうことは悲しいことですけど、また下から選手が伸びてきて、試合に出る…その繰り返し。ある意味、タケノコのように伸びていく、取られて終わりじゃないクラブであるのも、1つ誇らしいところではありますよね。

そうした状況を打破するため、真壁会長は4月に、フィットネスクラブを運営するRIZAP(ライザップ)グループの連結子会社になる決断をした。フジタの撤退で危機を味わった過去がありながら、あえて子会社になったのは、J1に定着しタイトルを目指せるクラブになるためだった。

遠藤さん プロ選手としてきちんと評価して、彼らが湘南にとどまることが出来るための環境作りは必要だったと思うので、もう1つ上のステージに上がるためのものは必要でした。選手の人生は選手のものなので、尊重する…頑張っている選手に報いる、応えられるものを提示したいという思いもありました。体力があればJ1に定着してアジア・チャンピオンズリーグ(ACL)や優勝という夢が、現実的な目標に出来る。そのためには必要なものもあるというのがライザップさんに関する決断です。

藤和不動産サッカー部創部から50周年の年にルヴァン杯を獲得した湘南。遠藤さんは、存続危機はクラブにとって必要不可欠だった「生まれ変わり」だと語る。

遠藤さん 入社したばかりの頃、すごくすばらしい選手たちがいて華やかかも知れないけれど、私たちは地域にとって何が出来ているんだろう? って疑問に思っていました。撤退は、すごく残念でしたけど…私たちはクラブを救えなかった当事者。フジタからの大きな支援があって成り立っていたけれど、地域の皆さんが助けてくれた。本当に地域のことを考えられていたのか、自分たちがあるのは誰が支えてくれているからか、大切なことは何なのかを社員1人、1人がものすごく自問自答しましたし、誰に支えられているのかというのも身をもって知って心底、考えることが出来た…そこからですよね。「生きながら、生まれ変わった」って、よく言っているんですけど、存続させてもらった中で、私たちは原点に返ることが出来たと思うんです。湘南ベルマーレになって、地に足を着けて地域と一緒に歩んでいこうというふうになれた、きっかけでした。クラブが良い意味で変わるチャンスだったし、必要だったことだと今は思います。

クラブの50周年事業を担当する遠藤さんは、優勝の歓喜に浸る間もなく、11月24日に発売する50周年記念DVD「SPIRIT DISC 50th」制作のラストスパートに取り掛かる。松本山雅FCを率いる反町監督、永木をはじめセルジオ越後、中田英寿、小島伸幸、名良橋晃の各氏らOB16人のインタビューを軸に、ルヴァン杯優勝の瞬間も追加で収録することになった。紆余(うよ)曲折を誰より知る遠藤さんの魂、そして湘南への愛が込められる。【村上幸将】

◆遠藤さちえ(えんどう・さちえ)1976年(昭51)3月5日、大阪府豊能郡出身。神奈川県立霧が丘高から湘北短大に進学。96年にベルマーレ平塚入社。外国人選手の生活面や家族のケアを担当、99年にチームマネジャー、01年より広報に。約15年広報を担当したのち16年からはスポンサー営業を担当している。