「マラドーナは日本に来たがっていた。彼が初期のJリーグを引っ張っていたら、日本サッカーはどうなっていただろう」。静岡・浜松市在住の元日本代表FW桑原勝義さん(76)は、マラドーナさん死去の報に接すると、30年前のことを懐かしそうに振り返った。

90年ワールドカップ(W杯)イタリア大会後の90年9月19日。桑原さんはウルグアイ人の関係者を伴い、マラドーナが所属していたナポリの施設に出向いた。「身長はわたしとそれほど変わらないのに胸板は2倍ぐらい厚かった。ガッチリした体で驚きました」。短パン姿の本人とテーブルを挟んで向き合い、自ら設立したクラブの将来構想など思いの丈をぶつけた。

当時、桑原さんはJリーグ加盟を狙う静岡県リーグ2部のPJMフューチャーズ(J1鳥栖の前身)の監督だった。同じ静岡県内の清水、ヤマハ発動機(磐田)と争っていたが、旗色は悪かった。ある日、日本代表の先輩でもある川淵三郎さんに言われた。「マラドーナを連れてきたら考えないでもない」。20億円以上とされた資金はPJMのオーナーが出すと約束してくれた。本気で動いた。

W杯の余韻がまだ残っていた頃、「ナポリに来てほしい」との連絡を受けた桑原さんは喜び勇んで出発した。関係者を通じて獲得の意思は伝わっていた。マラドーナは明るくニコニコして聞いていたという。「『プロリーグではなく地域リーグでプレーすることになるかもしれないが、いいか』と聞いたら『いいよ』と」。1時間以上続いた話し合いは手応え十分だった。

桑原さんの目にはマラドーナがナポリを離れたがっていたように映った。「W杯でイタリアに勝って、客席からのブーイングが増えた。契約は残っていたが、そういう環境に嫌気がさして『もうナポリにはいたくない』と。(日本で開催された79年の)ワールドユースでのいい印象があった日本、PJMで、プレーするという感触を得られた」。

ナポリの自宅にも招かれ、家族とも顔を合わせたという。「『試合が終わったら戻る』なんて言うから夜遅くまで待ったけど、なかなか帰ってこない。そのうちに『パーティーをやっている』なんて連絡があったねえ(笑い)」。自宅では会えなかった。交渉の進展を信じて日本に戻った。

しかし、まもなくしてマラドーナのコカインの服用が発覚した。PJMは水面下で交渉を続け、並行してマラドーナの実弟ウーゴやアルゼンチン代表の同僚バチスタらを獲得。しばらく背番号10を空けて待つなど受け入れの環境を整えた。しかし、「あと1歩」の感触を得てからが長かった。実現できなかった。

桑原さんはチームが本拠地を移転する前に監督を退き、弟隆さんに引き継いだ。自らのクラブで選手育成に専念した後、日本協会理事などをへて、現在は日本フットボールリーグ(JFL)理事長を務める。コロナ禍の中、29日には新幹線を乗り継いでヴェルスパ大分の最終戦に足を運ぶ。「参入9年目の初優勝ですから、カップやメダルを手渡したいと思って」。30年前に夢を追い、マラドーナに接近したサッカー人は、体が元気なうちはもう少し走り続けたいと思っている。【桐越聡】