10月に仕事でギリシャのアテネを訪れました。04年のパラリンピックを現地取材して以来13年ぶりでした。その間、深刻な経済危機が伝えられましたが、久しぶりに目にした市街は「きれいになった」という印象でした。09年に完成した博物館をはじめ、新たな商業施設はバリアフリーが整備されていて、大会開催をきっかけに市民の意識も変わったのだと感じました。

 有名な遺跡「アクロポリスの丘」には、絶壁に取り付けられたエレベーターが当時のまま残っていました。車いす1台しか乗れない簡素なものですが、車いす利用者はこれなしでは丘の上に行けません。私が滞在した約1時間、利用者が途切れることはありませんでした。もともと04年大会用に一時的に設置されたのですが、想定を超える高いニーズに、その必要性に気づいたのだと思います。

 9月にはある国際会議に出席するためロンドンを訪れました。「史上最も成功した」といわれた12年のパラリンピックから5年。パラスポーツは英国社会にしっかりと根を下ろしていました。街中の広告やテレビ番組でパラアスリートが当たり前のように起用され、7月のパラ世界陸上には平均5000円のチケットを購入した観客が大勢詰めかけたといいます。パラアスリートを障がい者ではなく真のアスリートとして見ることがごく自然になっていました。

 同じ会議に出席した英国人は「パラリンピックの成功が国民の意識を大きく変えた」と自信をにじませていました。障がい者への偏見や無関心が、大会をきっかけにガラリと変わったそうです。一方で12年以降もパラアスリートが活躍する舞台は広がっていきました。テレビ局は試合の放送を継続し、企業は選手たちを広告に起用し続け、国際大会も招致しました。パラリンピックの熱を冷ますことなく、次のブリッジをかけていたのです。

 この2カ月間でパラ開催2都市を訪れ、あらためて「20年で終わり」ではいけないのだと実感させられました。国際パラリンピック委員会(IPC)の人に「レガシーは残るものではなく、残すものだ」と言われたことも思い出しました。20年大会後、私たちは日本をどんな社会にしたいのか。その理想とするイメージを思い描きながら計画を立て、準備することがすごく重要なのだと思います。

 ◆大日方邦子(おびなた・くにこ)アルペンスキーでパラリンピック5大会連続出場し、10個のメダルを獲得(金2、銀3、銅5)。10年引退。現在は日本パラリンピアンズ協会副会長で、来年の平昌パラリンピック日本選手団長。電通パブリックリレーションズ勤務。45歳。