【大庭雅〈中〉】「私、そんなのできないよ」と安藤美姫に言わせたワガママなお願い

日刊スポーツ・プレミアムでは、毎週月曜日にフィギュアスケーターのルーツや支える人の思いに迫る「氷現者」をお届けしています。

シリーズ第8弾は大庭雅(27=東海東京フィナンシャル・ホールディングス)を連載中です。スケート界では大学卒業とともに引退する選手が多い中、「社会人スケーター」としてリンクに立ち続け、昨年末には11度目の全日本選手権に出場を果たしました。

中編では、ジュニア1年目以降の道のりをたどります。大躍進を遂げたジュニア時代と、その後に抱いていた思いと。駆け抜けた10代をつづります。(敬称略)

フィギュア

   

11度目の出場となった22年全日本でSPの演技をする大庭

11度目の出場となった22年全日本でSPの演技をする大庭

突然現れた新星に周囲騒然「ねぇ、誰?」

大人が慌てていた。同世代のスケーターからも、視線が注がれていた。

それを視界の隅にとらえながら、心の中でほほえんだ。

「すごくいろんな選手に『ねぇ、誰?』って言われたのは覚えてます」

思い返していたのは2009年。ふわりと笑って、14年前を回想する。

中学2年生になった大庭雅は、全日本ノービスに出場したことがないまま、ジュニア1年目のシーズンを迎えた。跳ぶことができなかった3回転ジャンプと、ずっと向き合い続けていた。

競技を始めて4年。遅々たる歩みであっても、自分の可能性を否定することなく、1日1日を積み上げてきた。そしてついに、その時はやってきた。

「最初にサルコージャンプが跳べたんですけど…」 

ようやく決めた3回転ジャンプ。ただ、湧き上がる達成感に浸る間はなかった。

3回転サルコーの成功によって、再加速し始めたスケート人生。その成長速度は、自分の感情も、ライバルたちの背中を、追い越してしまうほどだった。

10年愛知県競技会に出場し優勝した村上佳菜子(中)と並んで表彰台に立つ2位の大庭雅(左)。右は3位後藤亜由美

10年愛知県競技会に出場し優勝した村上佳菜子(中)と並んで表彰台に立つ2位の大庭雅(左)。右は3位後藤亜由美

「雲の上の存在」村上佳菜子と並んで表彰台

努力がひとたびカタチになると、そこからは一気だった。こともなげに振り返る。

「そこから2、3カ月くらいで跳べるようになったと思います。いきなりトリプルが全種類跳べるようになって」

2回転から1本目の3回転ジャンプを跳ぶにはおよそ1000日を要したが、そこから5種類の3回転を全て決めるまでには100日もかからなかった。

特別な理由があった。

「普通の選手はトーループ、サルコー、ループって種類があったら、まず1つをクリアして、また次のジャンプの練習をしてクリアしていく感じなんですけど。私の場合はどのジャンプも同時に、トリプルの練習をしていたんです」

遠回りにも思えた練習法は、きっかけさえつかめば、正の連鎖反応を生み出すものだった。

「全部惜しい、惜しいけど跳べない、みたいな状態がずっと長くて。ただ、跳べるようになった時に、一気に跳べるようになって。それで、トップ選手と戦えるレベルになってきたんだと思います」

2009年9月下旬。愛・地球博記念公園アイススケート場で行われた中部選手権。

ショートプログラム(SP)で3回転ループ-2回転トーループの連続ジャンプを決めると、フリーでも果敢に3回転ジャンプを組み込み、3回転ループを成功させた。

ノービスAだった前年は14位。それが1年後にはジュニアで2位に入り、表彰台でメダルを下げていた。

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岐阜県不破郡垂井町出身。2022年4月入社。同年夏の高校野球取材では西東京を担当。同年10月からスポーツ部(野球以外の担当)所属。
中学時代は軟式野球部で“ショート”を守ったが、高校では演劇部という異色の経歴。大学時代に結成したカーリングチームでは“セカンド”を務めるも、ドローショットに難がある。