【大島光翔〈中〉】裾を押さえた中野園子先生のように 今も見守る恩師たちに支えられ

日刊スポーツ・プレミアムでは、毎週月曜日にフィギュアスケーターのルーツや支える人の信念に迫る「氷現者」をお届けしています。

シリーズ第12弾は、「スタァ」の愛称そのままにスケート界で輝きを増す大島光翔(明大)の登場です。「中編」はジュニアの壁に苦しむ日々を救ってくれた恩師たちとの交流、そしてスケーターとしての長所を確信するに至る過程を追います。(敬称略)

フィギュア

   

1月29日八戸国体、佐藤駿(左から2人目)らと記念撮影をする大島(右から2人目)。“応援団長”としてチームを大いに盛り上げた

1月29日八戸国体、佐藤駿(左から2人目)らと記念撮影をする大島(右から2人目)。“応援団長”としてチームを大いに盛り上げた

1月八戸国体、元気いっぱい声援送る姿

飛び跳ねていた。

リンクではなく、リンクサイドで。

1月、青森・八戸での特別国民体育大会冬季大会の会場、フラット八戸。

大島は、明治大学の1年後輩で、練習拠点も同じ、幼少期からの大親友、佐藤駿の演技を眼前に、声を張り上げていた。

コロナ禍による規制が和らぎ、ようやく“国体名物”とも言える、仲間がリンクのすぐそばで応援できる環境が戻ってきていた。

「駿、いっけーーー!」

底抜けの明るさで、佐藤以外にも応援団の隊長的な威勢の良さで盛り上げていた。時には、仲間のジャンプに合わせて、自分もその場で大きくジャンプ!

フェンスを乗り越えんばかりの勢い。その時だった。大島のジャージーの背中側の裾をぐっと押さえ込む恩師の姿があった。

「中野(園子)先生ですよね。あの時、危ないからと制してくれているのを気づいてなくて。いつも、本当にありがたいです!」

そんな、いつも抱く感謝は、明るさを失いかけた中高時代の救いとなってくれた指導者たちに送られたものでもあった。

5月下旬、真っ赤に染めた新ヘアスタイルでリンクに登場した大島

5月下旬、真っ赤に染めた新ヘアスタイルでリンクに登場した大島

ジュニアの壁「ダメなのか、自分」

「中学生ぐらいが、1番落ちてたというか。ダメダメ期ではあったとは思います」

全日本ノービス選手権でも4年連続で上位争いし、野辺山で行われる有望新人合宿にも呼ばれていた。壷井達也など、関西の同年代の才気あふれるスケーターとも交流しながら、結果以上に仲間と滑る楽しさ、周囲から笑顔を褒められるうれしさに魅了され、育っていった。

それが、1つの壁にぶつかった。中学校2年生だった。

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スポーツ

阿部健吾Kengo Abe

2008年入社後にスポーツ部(野球以外を担当します)に配属されて15年目。異動ゼロは社内でも珍種です。
どっこい、多様な競技を取材してきた強みを生かし、選手のすごみを横断的に、“特種”な記事を書きたいと奮闘してます。
ツイッターは@KengoAbe_nikkan。二児の父です。