ゴール裏には人知れぬ家族の物語がある。そんな一端に触れた。勝利のピッチから歩み寄った息子。父はワイルドに抱き寄せると、満面の笑み。息子も照れくさそうに笑う。ひとしきり喜びを分かち合った後、父の目からはうれし涙があふれた。そこに父と子の強い結び付きを見た。
■後半27分から途中出場
9月11日、横浜市のニッパツ三ツ沢球技場。J3第24節・YS横浜-SC相模原戦で、また新たな選手がJリーグの舞台にデビューを果たした。後半27分からピッチに立ったのは相模原MF藤野心魂(こすも)、ユース所属で2種登録の高校2年生。17歳3カ月4日での初出場となった。
相模原が4-0と大きくリードする展開の中、ボランチの位置に入った。175センチ、73キロというガッチリとした体格。その姿と同様に堂々としたプレーぶり。
ボールを的確に周囲にさばき、相手ボールとなれば、すかさずスライディングタックルで奪い返した。攻守に幅広く走る。自陣のゴール前から、攻撃となれば敵陣のゴール前まで。いわゆる「ボックス・トゥ・ボックス」を体現する献身的なプレーヤーだった。
J3に高校生が出場すること自体は珍しくない。かつてFC東京やガンバ大阪、セレッソ大阪がU-23チームでJ3に参加しており、育成目的で多くの高校生がピッチに立っているからだ。実際、久保建英はFC東京時代に15歳5カ月1日の最年少記録でJ3にデビューしている。
それでも将来を嘱望される選手の第1歩には間違いない。「心魂」という名前の通り物おじしないプレーもさることながら、父子の抱き合う姿に引かれた。その裏側を知りたかった。意気揚々と引き揚げてきた藤野の足を止め、話を聞いた。
■横浜FC応援でJ観戦
まずデビュー戦の感想を問うと、藤野はしっかりとした口調で話した。
「普段の練習試合と違って観客のみなさんがいる中でプレーできるということは光栄ですし、その中で緊張もあったんですけど、自分らしいプレーができたかなと思います」
そう言って胸を張った。「やれた部分」とは?
「ボール奪って、ボール下げたところだったり、しっかりボールつなげるところだったり、デュエル(1対1の攻防)のところとか。左サイドでボールを受けたところから逆サイドへ展開するボールだったり。自分では悪くはなかったかなと思っています。そういった技術の部分とフィジカルの部分。まだまだですけど、これから伸ばしていきたい」
そして、試合後に父と抱き合った場面について話を向けると「この三ツ沢はすごく思い出のある場所でした」と教えてくれた。
大のサッカー好きという両親のもと、2005年(平17)6月7日、横浜市に生まれた。両親は横浜FCのサポーターだった。物心が付く前からJリーグ観戦で三ツ沢球技場に通い、ゴール裏から応援していた。その横浜FCは06年12月にJ2優勝を果たしている。当時まだ幼子だった藤野の姿は、記録映像の中に残っているのだという。
「横浜FCのオフィシャルJ1昇格VTRというのに、僕が出ています。(父親に)肩車されながら旗を振っているような。それが三ツ沢でした。そこで(Jリーグに)デビューって、何か縁を感じますよね。うれしかったですね」
実感がこもっていた。父と子にとってはかけがえのない思い出が詰まった場所。そこでJリーガ-の第1歩を踏みしめた。ここまで決して平たんな道ではない。日々の積み重ねが走馬灯のように脳裏によみがえったのだろうか。父は「緊張しましたよ。でもどんなプレーをするか分かっていたので」。いろんな思いが交錯し、涙となっていた。
■川崎F育ちが進路変更
藤野は2歳でサッカーをはじめ、小学3年で川崎フロンターレのジュニアに入団。多くの日本代表選手を輩出するなど育成に定評がある川崎Fで中学まで育った。さらにユースへの昇格切符も手にしていたが、高校サッカーへと心が揺れた。進学先も定まりつつあった中3の冬、相模原ユースから「すごく熱心に声をかけていただいた」。当時のユース監督の情熱にほだされ、一転して進路を変更したという。
人との出会いが人生を変えた。高校サッカーを選択していたら、また違ったものだったであろう。そこから2年足らずでJリーグのピッチに立ったのだから。「感謝しかないです」。トップチームと直結する相模原では目標が明確となり、Jリーグの舞台を意識して努力を重ねてきた。
「去年1年間フィジカルの強化というところを自分で意識した。J3だけでなく、J2、J1に行っても通用するような体をつくりたいなと思ってやってきました」
ことし春からトップチームの練習に合流。この日のYS横浜戦でも別格のプレーを披露していた元日本代表MF藤本淳吾ら、実績ある大人の中でもまれた。ただ試合となるとユースに戻って公式戦に出ていたが、準備万端整い、17歳3カ月4日でデビューの時を迎えた。ガッチリとした体格からフィジカルに目がいくが、持ち味は「小さい頃から徹底してやってきた止める、蹴るの技術」だと自負する。
何かが約束されたわけではなく、プロへのスタートラインに立ったにすぎない。それでもJリーガーとしての足跡を残したことで、次なる目標へと夢は広がる。
「個人としては、まずは相模原でまだ2種登録という形なので、近い目標としてはプロ契約。J3の舞台でスタメンに定着したい。それともう1つ、長期的な目標で言えば海外でプレーしたい。プレミアだったり、リーガ(スペイン)を目標に頑張っています」
■30年目Jリーグの価値
藤野だけでなく、この日は来季から相模原への加入が内定しているMF伊藤恵亮(東洋大4年)も特別指定枠で初出場。しかも鋭いボールカットからゴールを決めて見せた。会場のどこかで、伊藤の家族も見守っていたのかもしれない。これまであまり気に留めることはなかったが、毎年多くの選手がJリーグの舞台にデビューしている。そんな選手の数だけ、支える家族の物語があるのだろう。
1993年(平5)5月、10クラブで始まったJリーグは30年目を迎えた。今やJクラブは1~3部で全57チーム。全国津々浦々にサッカー文化は根付いている。ゴール裏にいた少年はピッチに立った。その姿にまた、夢や希望を抱く少年少女たちがいる。連綿と続くJリーグがもたらす価値をかみしめた。【佐藤隆志】