あの人がいたから、今の自分がある。プロサッカー選手の夢をかなえた者には、誰しも「育ての親」と呼ぶべきコーチが存在している。
横浜F・マリノスGKポープ・ウィリアム。プロ入り12年目の遅咲きにして、アジア・チャンピオンズリーグ(ACL)決勝の舞台に立った。
■沖田政夫さん、東京ヴェルディ育成担当
昨年までのプロ11年でJ1出場は14試合だけ。それも21年に所属した大分トリニータ時代に記録したものがすべてだ。“裏街道”を歩んできた男が今季はマリノスの守護神となり、ACLのノックアウトステージ全8試合に出場した。
そのポープが「父」と慕う人物がいる。
アカデミー時代を過ごした東京ヴェルディで指導を受けたGKコーチの沖田政夫さん、47歳。埼玉県立川口高校卒業後にブラジルに渡り2年間プレー。帰国後に横浜Fの練習生を経てJFLのジヤトコ、九州リーグの沖縄かりゆしに所属。その後に東京Vへ加入し、現在は育成担当を務めている。
「いつも親のような気持ちでポープの試合は見ています。決勝の大一番で、あのような結果になって、悲しくて悔しいという気持ちでいっぱいでした。遅れて入ったように見えたので、印象が悪かった。イエローで済んでくれたら、と願いましたけど…」
ACL決勝のアルアイン戦。ポープは前半アディショナルタイム、DFラインを突破した相手FWを倒してしまい「決定機阻止」によるレッドカードで退場となった。
「独特なアウェーの雰囲気があったと思います。最後までポープがいたら、試合はどうなっていたんだろうと思います。最後まで見たかったです」
後半に失点を重ね、1-5という予想外の惨敗となった。
■今は亡き藤川さんがつなげた縁
ポープは米国人の父、日本人の母のもとに生まれた。しかし5歳の時に両親は離婚し、父はいなくなった。姉との母子家庭に育った。
「そっちにおもしろそうなやつがいるから見てくれないか」
当時はベガルタ仙台のGKコーチだった東京VのOB、今は亡き藤川孝幸さんからクラブに情報提供がもたらされた。
ポープは小学5年の春休み、母親の実家に帰省した際に仙台の練習を見に行った。そこで藤川さんが長身の小学生の姿に気付き、話しかけたのがきっかけだ。
東京・日野市在住。当時は地元の少年サッカーチームに所属していたたため、引き抜くことはせず、調布市内で開催していたキーパースクールに誘った。そこで現日テレ・東京VベレーザGKコーチの中村和哉さんと沖田さんが指導していた。ポープが小学6年になる時だった。そこで基本を学び、中学に上がるタイミングで東京Vのジュニアユースに加入した。
沖田さんが懐かしむ。
「体が大きいですけど動けていたし、足元の技術も結構高かった。(元東京Vコーチの菊池)新吉さんが少年サッカーの試合を視察に行ったら、PK戦になってポープが5本中4本か5本止めて勝ったそうです。それで新吉さんがあいつおもしろい、ってヴェルディに呼んだ。後々ポープにあの時の話を聞いたら、あれが僕のピークでしたと言ってました」
■走りの日のたびに「再登校」
中学時代のポープはエピソードに事欠かない。まず、決まって練習に遅れてくる日があった。
「毎週水曜か木曜日にグラウンドが空いていないから、周りを走るトレーニングをしていた。毎回、その日になると、今日はちょっと再登校があるので遅れますと連絡がくる。それが何回か続いたので、おかしいと思って学校に連絡したら、1回も再登校はございません、と。多分、その走りのトレーニングの時間はどこかで時間を潰して、キーパーのトレーニングが始まる時間に合わせて来てたみたいです」
公式戦にユニホームを忘れてきたこともあった。母に届けてもらったが、アップを終えて試合に向かう時に、そのユニホームをロッカーに残して出てきたという。
PK戦となったライバルチームとの対戦だった。相手エースのキックの特徴を伝え、来るコースまで指示した。「よし来た!」と思ったら、ポープはまったく逆に跳んでゴールを決められてしまった。そのまま1本も止められずに試合は敗れた。「なんで逆に跳ぶんだ?」と聞くと、こう言ってのけた。
「僕は沖田さんの言葉より自分の直感を信じました」
しかもポープはその試合で短パンを逆にはいていたという。
「逆だぞって言ったら、ひもが締まらないからって。おまえ、それは負けるわ、って言ったのをすごく覚えています」
それでも素直な性格で憎めない少年だったという。
「結構何人かでちょっとした悪さをした時に、当時の監督が出てこいって言った時に、他の子は隠れていたんですけど、ポープ1人は正直に出てきた。ちょっと抜けてますけど、人間としては真っすぐな子だった」
■クラブハウスでスタッフと勉強
ユースへの昇格可否では意見が分かれた。それでも将来性にかけ、沖田さんは懸命に昇格を訴えた。ユースへの加入が決まった。
ただ問題が出てきた。都立高校が無償化となるタイミングだった。母子家庭ゆえに経済的負担をかけないよう、都立1本だけで受験したら失敗した。高校に通っていないと活動はさせないというルールがあった。通信制の高校に通わせた。午前中はクラブハウスに〝登校〟し、スタッフが代わる代わる勉強を教えた。
「私は勉強を教えられないのでゴミ拾いしたり、ちょっとランニングに一緒に行ったり。通信教育のカリキュラムをやって、何回かリポートを提出して、あとは学校に何回か行くんですけど。その授業で(女優の)武井咲さんとバスケットやったというのをポープは自慢していました。芸能コースかなんかがあった」
同期にはそうそうたるメンバーがそろっていた。中島翔哉、前田直樹(ともに浦和所属)ら。その中でポープは高校3年の途中からトップチームの練習にも加わるようになった。
ユースチームはプレミアリーグ東地区を無敗で勝ち上がり、西地区王者のサンフレッチェ広島ユースとのチャンピオンシップに挑んだ。相手には野津田岳人がおり、こちらも最強世代と呼ばれていた。
「ポープがやらかしました。最初のコーナーキックでした。元々、腰を痛めていた中、接触プレーで倒れ込んでしまった。それでも相手はボールを離してくれなくてそのまま失点した。プレーできるんだったらキーパーは絶対に倒れては駄目だって言ったんですけど。試合も1-3か1-4くらいで完敗しました」
沖田さんが指導する上で大事にしていたことは「キーパーの楽しさを伝えること」だった。シュートを止めた時の喜び、いいプレーをしてチームを勝たせた時の喜び。選手に厳しく言って従わせるやり方はしない。「選手から自主的にやりたいっていう、そういう気持ちを芽生えさせるように仕向けました」。
ユースを卒業する際、ポープは沖田さんに感謝のメッセージを手渡している。
「スクールから合わせて7年間本当にありがとうございました。僕にとって沖さんは父親のような存在でした。プロで活躍している姿を見せられるように頑張ります!!」
■見誤った美学、空回りした努力
沖田さんに活躍を誓ってのプロ入り。だが、ここからが本当の苦難の道のりだった。
期待されていたが出番は巡ってこない。3年間在籍し、2年目にJ2で1試合出場したのが唯一の記録だ。
生活面の甘さがあった。先の見えない日々に感情をぶちまけてしまう面もあった。当時のことをポープ本人にたずねると、こう振り返った。
「期待されていましたし、育成の時からトップに参加していた。その中で期待を裏切ってしまうことだったり。自分も良くなろうと、その期待に応えるつもりでやっていたつもりだったんですけど。それが伝わらなくて、すべてがうまく回らなかった」
空回りした。休みの日にトレーニングをしてケガしたこともあった。自分のプレーにフォーカスする以前に、ロッカーの掃除や用具の片付けを率先してやった。「それももちろん大事なこと」と前置きした上で、ポープはこう説明した。
「大前提としてサッカー選手としての価値があってのプラスアルファなのに、そこをはき違えていた。サッカー選手だからサッカーをしなければうまくならない。見誤った美学を持っていたし、いい人であれば救われると思っていた」
■女子や中学生と練習した日々
2回目か3回目の「寝坊だった」という。
「ロッカーから、チームから出て行ってくれと言われた。同期がどんどん試合に出ている中で自分だけ置いていかれた。練習場所がなくなって、僕が大事にしていたものは違っていたと気づいた。その時に精神的に崩れたし、打ちのめされた。それで練習場に行けなくなった。2カ月くらい、そこが大きかった。厳しかったし、苦しかった」
女子チームのベレーザや、中学生に交じって練習した。ほかのトップチームが練習試合にやってきた時、通りすがりにその姿を見られた。さらし者にされているように感じた。
「屈辱的だったし、恥ずかしかったし、情けなかったし。本当に死んでやろうかなみたいな時もあった」
悔しさにまみれた。しかし午前3時にパン製造の仕事に出かけるなど、懸命に育ててくれた母の姿が頭に残っていた。自分が頑張って家族を支えたい-。
「悔しく情けない気持ちを殺してでも、やるしか道がなかった。サッカーを続けるしか自分には道がない」
沖田さんはポープの練習に付き添った。いつもと変わらぬ明るさで、ばか話をして気を紛らわせた。
「難しいっていう監督やコーチはいましたけど、僕は彼の可能性ってすごくあると信じていました。ポテンシャルもそうですけど、いつかどこかで変わってくれるんじゃないかなと」
■「頑張ればゼロが1個増える」
東京Vを3年で出てからクラブを転々とした。相変わらず出番はなかった。
しかし20年にJ2ファジアーノ岡山が転機となった。レギュラーに定着すると40試合に出場し、翌年は大分へとステップアップ。プロ9年目でJ1の舞台を知ることとなった。その後、当時J2のFC町田ゼルビアを経て今季から横浜へ。キーパー技術に加え、高い足元の技術が後方からボールをつなぐマリノスのスタイルに合った。アカデミー時代の「鳥かご」で磨いたものだ。そして今季、飛躍の時を迎えた。
ポープの可能性を信じ続けた人。沖田さんは遠くにいながら、ことあるごとにラインでメッセージを送り、励まし続けた。
「何回かやめると言ってきたことはありましたけど、もったいないから絶対にやめるなと言いました。ポープのお父さんもプロのスポーツ選手だったと聞いていたし、ポテンシャルは間違いないと思っていた。頑張れば(給料の)ゼロが1個増える世界だからと。だから今のポープの姿を見ているとうれしいですね」
誰も想像ができなかった未来は現実となった。
ポープの母からは「あの時、沖田さんが見捨てなかったから」と感謝されたが、「僕じゃなくてポープが頑張ったまでです」。
■結婚もターニングポイントに
何があって変わったのだろうか? 人生経験を重ねたことで、心の持ちようは定まった。沖田さんは「結婚」が一つのターニングポイントになったとも感じている。
「結婚するタイミングで奥さんと一緒にうちに遊びに来てくれました。とても明るい人で盛り上げてくれている。ポープはちょっと考えすぎてネガティブになるところがあるので、そこは救われているように思います」
今季のJ1開幕戦で東京Vはポープの横浜と対戦した。沖田さんはヴェルディの勝利を期待する一方で、ポープがミスしないか、ハラハラしっぱなしだったという。
「僕には子どもがいないので、本当に息子みたいな感覚です」
今回のACL決勝のアルアイン戦は厳しいものとなった。失意の“息子”に向けて、いつもと同様にこうメッセージを送った。
「お前の頑張りがあったからこそ、ここまで来られたんだ。下を向くな」
そして優しい笑みを浮かべながら、こう口にした。
「決勝であんなことがあったというのは、まだまだ成長できるということです」
父がいなかった11歳の小学生は、サッカーで「父」と出会った。18年もの歳月がたち、今年で30歳。
そのポープも、もうすぐ父になる。【佐藤隆志】(ニッカンスポーツコム/サッカーコラム「サカバカ日誌」)













