東日本大震災から、ちょうど10年を迎えた11日、初めてJヴィレッジ(福島県双葉郡)を訪れた。現地は快晴で、さまざまな復興イベントが行われ、活気があった。震災が発生した午後2時46分には黙祷(とう)が捧(ささ)げられ、あたりは静寂に包まれた。

震災前からJヴィレッジで働く人たちの声を聞く機会があった。フィットネスクラブのトレーナーである西山由起さん(35)は06年、ジーコジャパン時代から勤めている。揺れた直後は一般客の避難誘導に追われ、プールにいた小学生も水着のまま駐車場へ逃がした。その後も「家がない」とJヴィレッジを頼って避難してくる人々のため、停電の中で炊き出しを手伝った。

情報がつかめない状況で、原発の危険を知ったのは12日。「ここに戻ってこられるとは思っていなかった」と当時を振り返る。避難生活中も楢葉町役場の手伝いをし、仮設住宅で過ごす人々がエコノミークラス症候群にならないよう体操教室を開催するなど、トレーナーとしての知識を生かして被災者に寄り添う活動を続けた。

ホテル事業部に所属する後藤朋久さん(54)は、02年W杯日韓大会の年にJヴィレッジでの勤務をスタートさせた。大学卒業後はメーカーに入社したが、学生時代に打ち込んだサッカーに携わる仕事を地元の福島でしたいと、35歳で心機一転した。震災を経験し、翌日にいわき市へ避難。原発が水素爆発を起こしたのを見て「しばらく近づくことはできないんだろうな」と思わざるをえなかった。

震災から3カ月後、残した業務をこなすために許可を得て向かったJヴィレッジは、変わり果てた姿になっていた。ピッチは駐車場のために使われ、施設内では疲れ切った作業員が段ボールの上に横たわっていた。復旧のための拠点として役割を果たしているとは理解しつつも、ショックはぬぐえなかった。その後、メーカー勤務をしていた横浜まで家族と避難。神奈川県内で単身赴任し、生活を続けた。

現在、震災当時を知るスタッフは2人だけ。西山さんがJヴィレッジに戻ってきた理由は、避難生活中の利用客との会話だったという。「お客さんからよく電話がかかってきて『戻れるまで頑張ろう』『またみんなで会おうね』と言われたことが、心に残っていた」。Jヴィレッジが復活をとげるとき、気心の知れたスタッフがいたほうがいいと感じた。「(Jヴィレッジは)人と人のつながりができる場所だった。今また生活の一部になってきているのはうれしい。またそういう場所になってほしい」と、願いを語る。

後藤さんも戻った。「10キロ先には、まだ(立ち入り禁止の)バリケードが張ってあるところもある。Jヴィレッジはこのエリアでは特別。本当の被災地の現実を見てもらう、語り部さんに話を聞いてもらう、その拠点となってほしい」。地域貢献の施設としての役割だけでなく、被災地に光をさす復興のシンボルとして、発信を続けていく使命がJヴィレッジにはあると感じている。

Jヴィレッジでは20日にはメディカルセンターがオープンし、4月以降はアカデミーが再開する予定。少しずつ着実に、元の姿に戻ろうとしている。その縁の下には、震災直撃を経験して1度は土地を追われ、それでも苦しい時間を乗り越えて戻り、復興のシンボルを支え続ける人の存在がある。【岡崎悠利】(ニッカンスポーツ・コム/サッカーコラム「サッカー現場発」)

◆岡崎悠利(おかざき・ゆうり) 1991年(平3)4月30日、茨城県つくば市生まれ。青学大から14年に入社。16年秋までラグビーとバレーボールを取材。16年11月からはサッカー担当で今季は主にFC東京を担当。