もうすぐ2021年が幕を閉じようとしている。

この冬もまた、スポーツ界で多くの選手がユニホームを脱いだ。サッカー界ではセレッソ大阪のFW大久保嘉人、浦和レッズのMF阿部勇樹、Vファーレン長崎のFW玉田圭司ら日本代表としてW杯を戦った選手がピッチを去った。プロ野球界でも松坂大輔投手が現役を引退。華やかな引退セレモニーが行われる選手はごくわずか。人知れず、去り際を迎える選手も多い。

21年の夏。関西リーグ1部おこしやす京都の公式ホームページに、こんな掲載があった。

「寺田紳一選手 現役引退のお知らせ」

シーズン真っただ中の8月19日のことだった。突然の引退は、新聞で報じられることはなかった。

ガンバ大阪時代に当時の西野朗監督にかわいがられ、移籍した横浜FCではカズ(FW三浦知良)に愛された選手だった。

「いつも、どんな試合でも、サッカーが楽しかったです。プロになって、大好きなサッカーが仕事になった。でも、初めてサッカーが楽しくないという気持ちになってしまったんです」

21年の天皇杯2回戦(6月2日)でJ1から数えて5部相当のおこしやす京都が、J1のサンフレッチェ広島を5-1の大差で破ったことは、ちょっとしたニュースになった。続く3回戦のヴェルスパ大分戦に途中出場した寺田は試合後、今まで味わったことのない感覚に襲われた。

横浜FC時代の11年に左足の脛骨(けいこつ)高原骨折に加えて内側、後十字靱帯(じんたい)を負傷する大ケガに見舞われた。だましだまし、10年近くプレーを続けてきたが、自前のグラウンドを持たない地域リーグでは、日々変わる練習場はほとんどが人工芝。古傷の痛みが再発し、いつしか精神面までもすり減らすようになっていた。

「天皇杯で(ヴェルスパ大分に)負けて、みんなすごく悔しがっていたんです。でも自分はそういう気持ちになれなかった。その時、もうアカンと思いました。みんなに伝わったら悪影響になる。身を引くべきだと感じました。ケガで思うように、体が動かへんくなってしまった。迷惑をかけるのは分かっていたけど、サッカーを嫌いになりたくなかった」

シーズン中に異例の引退を決めた背景には、そんな葛藤があった。コロナ禍も追い打ちをかけ「外出ができないので、リハビリもできず、自分が衰えていくのを感じていた」という。

G大阪下部組織からの生え抜きで、ジュニアユース時代には1学年下に本田圭佑、家長昭博らがいた。G大阪がリーグ初優勝した2005年12月3日の最終節川崎フロンターレ戦で、終了間際にFWアラウージョの得点をアシストし優勝に貢献。2008年のクラブW杯では3-5の激闘を演じたマンチェスター・ユナイテッド戦にも出場している。西野ガンバの黄金時代を知る選手でもあった。

「西野さんには直接、プレーのことを言われた記憶がないんです。『言わへんけど、俺は見てるぞ。自分で感じろよ』というタイプの監督でした。僕は西野さんからチャンスをもらえた。あそこで結果を出していれば、サッカー人生は変わっていたかも知れません。ガンバにはたくさん代表選手がいて、ここで活躍したら日本代表が見えると、そう思っていました」

10年に当時J2の横浜FCに期限付き移籍する。12年に1度はG大阪に復帰するも、半年で再び横浜FCへ。背番号10をもらい、主将も任され、FWカズからは多くのものを学んだ。

「僕が初めて横浜FCに行った頃、カズさんは40代中盤でした。一瞬のキレ、スピードは衰えを感じていたと思うんですけど、ずっと先頭を走るんです。誰よりも早く起きて、準備をして、練習が終わると次の日に向けてリカバリーに時間をかける。カズさんも楽しくて、サッカーが大好きでやっている。その姿がすごく印象に残っていて、今でもカズさんは、うまくなるために続けている。スゴイことですよね」

引退すれば収入はゼロになる。第1子となる長女の穂香(ほのか)ちゃんが5月12日に誕生したばかりだった。妻の理恵さんに打ち明けると、こんな言葉が返ってきたという。

「あなたの決断に付いていくだけ。(お金が)足りない分は私が働けばいい」

今後もサッカーに携わっていくため、指導者の道を歩む。そう決めると、知り合いを頼ってJクラブの練習視察に動いた。8月下旬から約1カ月。妻とまだ幼い娘を車に乗せ、松本から新潟、栃木へ。その日の宿をスマートフォンで予約する日々。まだコロナ禍で外出もままならず、食事はもっぱらコンビニの弁当やお総菜だった。そんな中、松本では元日本代表MFの名波浩監督がほぼ初対面にもかかわらず受け入れてくれた。

「松本に行ってすぐ、名波さんから『練習に入らないと分からないから、やってみろよ!』と言われて、フリーマンをやらせてもらったんです。食事にも誘っていただいて、僕が気になったことを質問攻めしました。監督をやる上で、何を一番大事にしているか聞いたら『選手ファーストだよ』って。いろんなことを学ばせていただいた」

21年からはJFLのティアモ枚方のコーチに就任する。黄金時代のG大阪で過ごし、カズの背中からも教わり、栃木に移籍した背景にはG大阪の先輩にあたる元日本代表FWの大黒将志の存在があったから。人に恵まれた現役生活だった。今までの経験を伝え、選手を育成することが使命になる。

「おこしやす京都の時、正直、高校を卒業してから一番(収入が)少なかったんです。みんな夜も働いて、サッカーをしていた。僕は今まで恵まれていた方なので、苦労してお金を稼ぐことを知った。そこに、働きながらJリーガーになりたいと思って頑張っている選手がいて。その選手にアドバイスをした時に『チン君(寺田の愛称)のおかげや』って言われたのが、すごくうれしかったんです。僕はガンバ時代にACLで優勝もしたし、誰もが経験できることではないことを味わった。これからは、それを伝えていきたい」

ユニホームを脱いでからも、夢は続く。

ただ、サッカーが好きだから。【益子浩一】

現在指導にあたるサッカースクール「Ken SkilUp Football School」の子どもたちと記念撮影する寺田紳一(右)(寺田氏提供)
現在指導にあたるサッカースクール「Ken SkilUp Football School」の子どもたちと記念撮影する寺田紳一(右)(寺田氏提供)