日本代表が初出場を決めた「ジョホールバルの歓喜」から、16日で20年を迎える。フランスW杯アジア最終予選プレーオフのアジア第3代表決定戦。ジョホールバルのメンバーで、イランのエース殺しの役割を担った中村忠氏(46=FC東京U-23監督、以下敬称略)はあの一瞬をこう表現した。「あの時があるからこそ、日本代表は進歩してきた。W杯に出たことで分かることがある。出たことに意味があると、20年経って改めてそう感じています」。

 

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 97年11月16日。中村はジョホールバルでベンチ入りしていた。役割は岡田監督から具体的に指示されていた。イランの最も危険なMFマハダビキアを抑えること。それもリードした場面で投入され、キープレーヤーに仕事をさせずに、試合をそのまま終わらせるというとても重要なミッションだった。

 当時のJリーグは世界的なプレーヤーが、まだ円熟味を残したタイミングで来日し、世界トップの動きを日本のファンに披露していた。鹿島のレオナルドや、名古屋のストイコビッチがその代表例になる。そのスーパースターを封じる役目を担ってきたのが中村だった。当時読売クラブで守備の要として相手エース封じを任されていた中村は、ネルシーニョ監督からある日、忘れられない言葉をもらっている。名古屋戦の前夜ミーティングで監督は言った。「明日の試合は、ストイコビッチは中村がマークする。いいか、明日の試合は10人対10人の試合だ。明日のピッチにストイコビッチは存在しない。そして中村もいない。だから我々は10人で10人の名古屋を倒す」。相手エースの存在を消すほどの徹底マーク。1人1殺のスピリットは中村の究極のチーム貢献のスタイルだった。

 その力量は、そのまま岡田ジャパンでも重要な武器として発揮されてきた。しかし、イラン戦はもつれてしまう。試合終盤に投入予定が、同点のまま延長戦に突入し、中村の出番はなくなり、岡野のゴールデンゴールによって決着がついた。

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 それから、約4カ月後、年が明けての3月のオーストラリア遠征で中村は非情の通告を受けている。岡田監督から遠征先のホテル内で呼ばれ、フランス本大会でのメンバー外を伝えられた。

 中村 何人か、呼ばれていました。監督から僕が呼ばれていると聞いた時に、予感はありました。僕はレギュラーじゃなかったし、(僕を外せないくらいの)地位を、チーム内で築けていませんでしたから。岡田監督からは「お前はここまでだ。ここまで一緒によく戦ってくれた。ありがとう」と、確かそういう内容のことを言われたと思います。今、振り返ると、やっぱり悔しかったですね。本大会の直前の3月は、もう致命的でしたからね。

 同じようにFWの黒崎、MFの本田らが監督から通告を受けた。そしてそれから3カ月後、岡田監督はキャンプ地フランスで、カズを外す発表をして、日本中を驚かすことになるのだが、それより前に中村たちは代表落ちの通告を受けていた。現在、日本サッカー協会副会長として日本サッカーを支える岡田氏は中村らへ通告したことについて「確か、そこまで一緒に戦ってくれたメンバーだから、きちんと話をしたことは覚えている」と振り返った。

 

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 中村にとって、ジョホールバルで味わった経験は鮮烈なものだった。あの歓喜の中で、その先に日本代表が目指す道がくっきりと映っていた。

 中村 僕がやっていた時は、ラモスさんがいて、カズさんがいて、その周りで国内組が中心となる選手を支えていた。でも、今は海外組が主体で、それを国内組が支えるようになった。日本代表を構成するメンバーが、ようやく世界基準に近づいてきた気がします。これで、世界のトップクラブで、主力として活躍する選手が数人代表に入ってくれば、間違いなく代表チームのレベルは上がると思います。私たちがジョホールバルで戦っていた時、世界のACミランで、日本人が10番を背負うなんて想像もできなかった。でも、20年を経て日本人もここまで来た。確かにW杯の大会ごとに成績に浮沈はあるが、20年前を考えれば進化していることは紛れもない事実だと思います。そして、この後の目指す道をはっきりしてきた。1次リーグ突破はもとより、初の8強、そしてさらに上を目指す。それがサッカーをしている者のあるべき姿です。

 東京U-23では将来の日本代表を担う世代と向き合う日々だ。中村は最後にこう言った。「いつか、W杯本大会に出て強い日本を表現できる選手を輩出したい」。それが、日本代表の骨格となる選手に育てば、これ以上の喜びはない」。

 

【取材・構成=井上真】