「ドーハの悲劇30年~歓喜からW杯優勝へ~」と題し、日本代表の森保一監督(55)単独インタビューから当時と現在地を探る3回連載の第2回は「悲劇が日本サッカーにもたらしたもの」。かつてW杯など世界大会が遠い存在だった日本が、最も初の出場権に近接したのが94年米国大会だった。選手として、はね返された男は「さらに何をしなければならないのか。日本サッカー界がより学び、分析するきっかけになった」出来事と位置付けていた。
当時、日本には追い風が吹いていた。前年の92年アジア杯広島大会で初優勝。悲劇の約5カ月前となる93年5月には国立超満員の中でJリーグが開幕した。サッカー熱が沸騰したところで挑んだW杯最終予選。宿敵韓国を相手に31年ぶりの完封勝利(1-0)も収めたが、最後の最後で力尽きた。「やはり勢いだけではダメで」。イラク戦の後半ロスタイム、ゴール前に後退した日本イレブンの足は止まり、浮足立っていた。
深い後悔が未来への起点になった。「ゴール前にへばり付けば守れるわけではない。ボールの出どころ、持っている相手に制限をかけないと」。当時も分かっていた、のだが、極限状態では遂行できない。今、掲げるは「いい守備からいい攻撃」。FWから始まる連動したプレス、原始的な球際の戦いで負けない、を徹底する。「攻撃的な守り」を戦い方の根底に築いた。
準備も綿密になった。昨年9月の欧州遠征時、試合終盤の締め方をシーン別に整理していた。森保監督が明かす。ドイツ、スペインを連破したW杯カタール大会に向けて「残り5分、10分のプランをB、Cと持たせていました。勝っていたら、負けていたら…と絵を描いて、共有して。そこまで細かく分けた準備は、当時はなかった」。プランニングと経験値が融合した。
30年前は人材確保にも限界があった。商社など現地法人で働く日本人に、分析や情報収集を頼っていたほどだった。現在は複数人の専門分析スタッフを抱え、昨冬のW杯までの4年間に50以上の国・地域を探索した仲間もいた。時には外務省のサポートも入り「応援し続けてもらえているおかげで、日本サッカーが大きな成長を遂げていることを忘れてはいけない」。あの悲劇は、オールジャパン体制を作り上げるための礎になっていた。【岡崎悠利】

