新型コロナウイルス感染拡大の影響で、国内外のサッカーリーグ、代表の国際試合は中断、中止を余儀なくされている。 生のサッカーの醍醐味(だいごみ)が伝えられない中、日刊スポーツでは「マイメモリーズ」と題し、歴史的な一戦から、ふとした場面に至るまで、各担当記者が立ち会った印象的な瞬間を紹介する。

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京都(現J2)が初めてJリーグに昇格した96年から約1年半の混迷は、記者生活の中でも衝撃度は1位だ。96年は3月に開幕し、京都が初勝利を挙げたのは9月7日の第18節浦和戦。このJ1ワースト記録となる17連敗は現在も破られていない。

京都はよくも悪くも当時39歳、元日本代表MFラモス瑠偉(63=現J2東京Vチームダイレクター)に振り回され続けた。開幕から連敗が続いた5月、V川崎(現東京V)のラモスがレオン監督とソリが合わないことに目を付け、電撃獲得にこぎつけた。

DF大野俊三(鹿島)ら他の代表級も大量補強した京都だったが、ラモスが師事していたブラジル人のオスカー監督を成績不振を理由に6月に解任した。京都を引っ張っていたラモスはこの件を機に、次第にクラブと衝突するようになる。「辞めてやる」。物騒な言葉が何度も聞かれ、一部の幹部を名指しで批判するようになった。

ラモスとクラブが9月、京都・祇園の料亭で来季の契約について話し合うという情報が入った。退団も想定していた記者に、会談後のラモスは胸を張って取材に応じた。

「会社と話し合いをして、チームを強くしたいという気持ちが分かった。僕もサポーターとチームを関西一にすると約束した。来年もやるよ」。その後も仲間の処遇や人事についてクラブを批判したが、祇園のラモスの言葉こそが本心と思っていた。

迎えた97年、ラモスは開幕から故障がちで欠場が増えた。そして8月、嫌っていたレオン監督が去ったV川崎へまさかのUターン移籍が決まる。「京都で現役を終えるつもり」と入団してきた男は契約を半年残しながら、わずか1年4カ月でもとのさやに戻った。

不満のある京都より嫌いな監督が去ったV川崎。ビジネスの域を超え、愛憎劇に生きたラモスの選択だった。京都の96年は最下位(16チーム)、97年は14位(17チーム)。当時J2がなく、降格がなかったのが救いだった。【横田和幸】

 

◆J1の連敗記録 96年京都の17連敗が歴代ワーストで、2位が98年神戸の16連敗。当時は延長VゴールでPK戦もある完全決着方式。延長以降を廃止した引き分け制は03年から導入され、09年大分が歴代3位の14連敗を記録。Jリーグでは連勝や連敗中でも引き分けた時点で記録は止まる。