携帯電話(当時ガラケー)からの、おどろおどろしい警告音が、記者のタイピングを止めた。次の瞬間、視界が定まらない、うずくまる以外方法がない、すさまじい揺れが全身を襲った。経験したことのない衝撃に「これ、地震…?」と、揺れの正体すら判断がつかなかった。

そこは11年3月11日、午後2時46分のJ1仙台のクラブハウス。机の下にもぐり、どれぐらいたっただろう。一瞬、揺れが収まった直後、2階から手倉森誠監督ら首脳陣が命からがら駆け降りてきた。「死ぬぞ。逃げろ!」。誰が言ったかは分からない。それでハッとした記者たちは監督らとともに、一斉にクラブハウスから飛び出した。

駐車場のアスファルトが地割れし、その左側と右側が揺れとともに不気味に動いていた。誤って足を滑らせたら骨が一瞬で砕けると、恐怖を感じた。数分後、そのひび割れから液状化現象で泥水が噴き出す。映画のような光景だった。

首脳陣が働いていた2階は、さらにひどい惨状だった。天井が落ち、窓ガラスは割れ、棚が倒壊。けが人が出なかったのが奇跡だったほど、手倉森監督らの執務室は被害が大きかった。

即時停電、携帯電話もつながらない。揺れが収まるとクラブハウスに残っていた数人の選手が加わり、「翌日の名古屋戦はあるのか」などと立ち話が始まった。今思えば開催されるはずはないのだが、何の情報も得られない中、仕方のないことだった。

地震から40、50分後ぐらいだったか。ふと、カーナビのテレビであれば見られるのではないかと、車のエンジンをかけた。映し出されたのは大津波にのみ込まれる仙台空港。首脳陣の1人を車に呼んだ。Jリーグどころじゃない…。顔から血の気が引いていた。その様子が会話の輪に広がると一同、固唾(かたず)をのんだ。

Jリーグが再開したのは4月23日。仙台はアウェーで川崎Fに2-1で勝利した。後半42分、DF鎌田次郎が逆転ヘッドで劇的勝利を決めた。手倉森監督は勝利監督インタビューで「震災当日、大津波警報の赤線が出っぱなしだった東北の地図や、被災者の顔が頭に浮かんだ」と人目をはばからず、泣いた。

翌週29日にはホームに浦和を迎え、1-0で勝利。震災発生からわずか50日目、収容人数1万9000人余りのユアテックスタジアム仙台に1万8456人もの観衆が集まった。

後にも先にも聞いたことがない。腹の底に響く、低く重いサポーターの迫力に満ちた声援は、今でも忘れられない。震災禍の暗い気持ちを発散するかのような、魂の叫びに聞こえた。

あれから9年。今、新型コロナウイルスの脅威に直面している。終息時期が読めないという意味では、震災時より見通しは暗い。

それでも、スポーツの役割は必ず回って来る。する人、見る人、支える人-。スポーツは人々の心を豊かにする。11年4月29日のユアスタは、それを体現した。21年7月23日、東京五輪が開幕できたらまた、声がかれるまで叫びたい。【三須一紀】