J1歴代最多得点記録(191点)を持つ元日本代表FW大久保嘉人(39)が、今季限りでの現役引退を決断した。19日、所属するセレッソ大阪が発表した。04年アテネ五輪に出場し、スペイン1部マジョルカ、ドイツ1部ヴォルフスブルクと2度の欧州移籍を経験。ワールドカップ(W杯)は10年南アフリカ、14年ブラジル大会に出場し、川崎フロンターレ時代には3年連続で得点王(13~15年)にも立った。華やかな経歴の裏側には、重圧との戦いがあった。

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思い出されるのは今から11年前のこと。岡田ジャパンの一員として全試合に先発し、世界16強の扉を開いた10年W杯南アフリカ大会から帰国した直後のことだった。当時、ヴィッセル神戸に所属していた大久保は、長い間、練習に姿を見せなかった。不思議に思った当時の番記者が、クラブ側に問い合わせたところ「古傷のケガの治療」を理由としていた。

だが、真実はそうではなかった。

W杯で身も心も燃え尽き、オーバートレーニング症候群を発症していた。当初はどこの病院に行っても原因が分からず、カウンセリングにまで通ったという。その頃に「もうサッカーを辞めたい」と漏らしたほどだった。クラブ側は選手を守るために、長期の練習欠席を了承。その期間は1カ月近くにも及んだ。身を隠すために、妻莉瑛(りえ)さんの親戚を頼って長崎の五島列島に滞在。携帯電話の電源を切り、テレビも見ない生活を送ったことがあった。

復帰してからも結果が伴わない日々が続いた。10年はJ1でわずか4得点、11年9得点、12年4得点。振り返れば、その頃にも「引退」を口にすることが度々あったように思う。

転機は12年のオフ。クリスマス頃に川崎Fからオファーが届き、悩んだ末に移籍を決断する。当時の風間監督の指導で復活を果たし、13年から3年連続で得点王に立った。

輝かしい経歴ばかりが目を引くが、浮き沈みの激しいサッカー人生でもあった。川崎Fを離れると得点から遠ざかり、昨季はJ2の東京Vでついにリーグ無得点。18年途中から19年まで在籍した磐田時代にも「もう、いつ辞めてもいい」と半ば自暴自棄になっていた。

もがき、悩む日々、いつも思い出すのは、亡き父の言葉だったという。

「天狗(てんぐ)になるな、努力をしろ-」

長らく闘病生活を送っていた父克博さんは、13年5月13日に61歳で他界した。病室の引き出しから出てきた1枚の紙切れには、こう記されていたという。

「ガンバレ 大久保嘉人

日本代表になれ 空の上から見とうぞ」

これまで引退が脳裏をよぎったことは、数え切れないほどあった。10年W杯後にオーバートレーニング症候群を発症した際には、父に電話でこう告げた。

「俺、代表はこれで終わりにする。もう、できない…」

すると父は、怒鳴り声を挙げたという。

「お前は、バカか! 日本代表でやれ、努力をしろ、そう言い続けてきたやろ!」

その言葉で心を奮い立たせた。父の他界した13年に川崎Fで自身初の得点王になり、遠ざかっていた代表に復帰したのは翌14年。当時のザッケローニ監督は、W杯ブラジル大会のメンバーにサプライズで招集した。

偶然にも、その日は父の死からちょうど1年にあたる命日でもあった。

つい最近も、大久保は周囲にこう漏らしていた。

「(J1通算)200ゴールにはこだわりがあるんよね。どうにか、それは達成したい」

若い頃はやんちゃ坊主で暴言を吐き、問題を起こすことも度々あった。ただ、大久保ほど人間味のある選手は、そう多くはない。いつまでも日本代表にこだわり、記録にもこだわった選手生活だった。

天国の父へ、元気な姿を見せるためにも、まだ現役を続けたかったのかも知れない。ただ、身も心もボロボロだった。【10年、14年W杯担当=益子浩一】