元日本代表監督のイビチャ・オシム氏が1日、80歳でこの世を去った。哲学的な言い回し、独自の練習法などで「日本代表の日本化」を目指した知将。日本への愛も深く、脳梗塞で倒れて退任後も、その思いは多くの関係者に受け継がれている。数々の証言から、その功績を見つめ直す。連載「オシムイズム」の第1回は日本代表通訳を務めた千田善氏(63)に聞く。

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オシム氏が脳梗塞で倒れたのは07年11月。その暮れから約1カ月、本人に絶対に伝えてはならない事実があった。12月7日に発表された、代表監督の後任に岡田武史氏が就任した人事だった。千田氏が振り返る。

「奥さんが、ショックを受けて(容体が)悪くなるかもしれないと。面会する人には話題に触れないようにお願いし、スポーツ新聞も遠ざけました」

それほど日本への愛着、日本代表への責任感は大きかった。その後、日本サッカー協会の田嶋幸三専務理事(当時)が訪れて決定を伝えると「分かりました」と返したという。

64年東京五輪にも選手で出場し、03年からは市原で指揮を執った。そして、06年7月には日本代表を率いることになった。その就任会見で掲げた「日本代表の日本化」。海外のまねではなく、日本人の持ち味を生かしたサッカーを目指す。俊敏性などの長所を自覚させ、自信をつけさせ、勝たせる。その道半ばでの病魔だった。容体が回復後のリハビリ期間でも、「何か日本に痕跡を残したい」と頻繁に願うのを千田氏は聞いた。それまでも、常に日本のことを知ろうとする姿を目の当たりにしてきた。

通訳に決まったのは就任会見から数日後。面接と聞いて行くと、いきなり代表スタッフとのミーティングだった。ユーモアのある独特の言い回し。「最初は一瞬何を言いたいのか、止まることも。比喩も、文脈を全て聞くと意味がわかる。面白かったですね」

とにかく知識を求める人だった。千田氏が通ったのは八重洲の大型書店。洋書コーナーでフランス語の雑誌などを買いあさり、週に何度も運んだ。「日本の特集などもされてて、『なぜ首相が靖国神社を訪問することが事件なんだ?』など、日本の事情もよく聞かれました」。それは、サッカーに通じる日本人の特徴を考える材料だった。

例えば常々、課題にしていたのは判断能力だった。「GKと1対1の場面でシュートを打つ前にベンチを見る」。上意下達でリスクを取って自分で判断できないことの大げさなたとえだが、「日本化」を進める上での鍵だと説き続けた。教育的な土壌に、原因を求めもした。「責任は俺が取るからチャレンジしろ」。サッカーにとらわれない普遍的な特性を観察し、そう教え子に諭した。

「英語では監督はトレーナーと訳しますが、オシムさんはそれを嫌いました。語源が馬の調教師で、型にはめて育てる人のことなので。ティーチャー(先生)と呼ばれたいと。選手の中にある要素を伸ばす存在でいたかったのです」

頻繁にJリーグの試合に足を運び、それまで脚光を浴びなかった選手も招集した。時には試合がない時期の合宿で30人を呼んだ。「日本化」のために、多くの選手に自信を植え付けたかった。07年11月に倒れてからは、意識不明の時期もあった。回復した時の第一声は「試合は?」だった。

「日本代表の試合もあったのでそのことか、倒れたときに見ていたプレミアリーグの試合のことかは分かりませんが、とにかくサッカーのことでしたね」

日本を強くする。それが常に頭にあったのだろう。

「いまは当たり前に『ジャパン・ウェー』という言葉を言いますが、その最初はオシムさんですね。それは本当に大きなことだったと思います」

痕跡を残したい。そう願った「先生」の教えは、しっかりといまに息づく。【阿部健吾】

◆千田善(ちだ・ぜん)1958年(昭和33)10月10日、岩手県生まれ。東大卒業後、旧ユーゴスラビア(現セルビア)ベオグラード大学政治学部大学院中退(国際政治専攻)。紛争取材など約10年の同地での生活後、大学講師などをへて日本代表通訳に。サッカー歴は40年以上。「オシムの伝言」などの書籍や、近著では「ぼくたちは戦場で育った サラエボ1992-1995」を監修。序文にはオシム氏が寄稿している。

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