FIFAワールドカップ(W杯)カタール大会で、日本は決勝トーナメント1回戦でクロアチアと対戦する。1998年(平10)にディナモ・ザグレブに移籍した三浦知良(カズ)を取材した記者にとっては、感慨深いカードとなった。W杯3度目の対戦を楽しみにしている。

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98年にディナモ・ザグレブで奮闘中のカズを取材にクロアチアへ向かった。遅延により、飛行機がうまく乗り継げず、ドイツ国内でフランクフルトとミュンヘンを行ったり来たり。ザグレブ空港に夜遅く着いた時には、案の定、ロストバゲージになっていた。

なんとかホテルにチェックインし、翌朝、取材へ。2カ月間の取材経費として持参した現金30万円を部屋の金庫に入れ、金庫の鍵を持って部屋を出た。しかし、夕方、部屋に帰ってみると、その現金はきれいさっぱり消えていた。

ザグレブ駅前のホテル・エスプラナーダはクロアチアでも指折りの格式高いホテルだった。ダメ元でフロントに現金がなくなったことを言うと「ハウスキーパーが忘れ物だと思い、こちらに持ってきています」と、丸々戻ってきた。ロストバゲージのため、部屋には他に荷物がなかった。チェックアウト時に忘れたと考えられてもおかしくない状況だっただろう。正直にフロントに届け出るハウスキーパーの姿を想像するとともに、クロアチアという国が一気に好きになった。

カズという1人のサッカー選手を取材に、日本から2~3社の新聞社から派遣された記者が常駐していた。チームではFWのレギュラーを得られず、苦戦していたカズだが、時にはホペイロ(用具係)のように選手の飲み物を運んだり、練習熱心な姿もあって、現地メディアの印象は悪くなかった。そして、「カズを取材に来た日本人」として、私たちにも注目が集まり、現地紙から取材を受けることになった。

市内には標高30メートルほどの小高い丘があって、短いケーブルカーで頂上まで行けた。そこにあるレストランのザグレブスタイルステーキとザグレブスタイルスープが大好きだった。豚肉をミルフィーユ状に重ねたステーキと、ボルシチに近いスープ。そして帰りは歩いて丘を下り、丘のふもとにあったアイスクリーム屋で、アイスを食べながらホテルに帰るのが、仕事後の至福の時だった。アイスクリーム屋には女優のデミ・ムーアに似た女の子がいて、その子から買えた日は当たりだった。そんなくだらない話ばかりをしたら、タブロイド判の半分くらいをつかった大きな記事になってしまった。翌日から、アイスクリーム屋に行くと、恥ずかしそうなデミ・ムーアが同僚から押し出されるようになった。

カズの周りにこんなやつらがいる。というのが、広まったのだろう。ディナモ・ザグレブの練習場にいろいろな来客があるようになった。「今度、格闘技で日本に行く。オレを日本のメディアで紹介してくれ」。そんな依頼が2、3件あった。身長2メートルを超える大男に、宿泊していたホテルまでお願いに来られた時は、さすがに恐怖を感じたが、彼らは真剣だっただけで、礼儀をわきまえ、しつこい依頼はなかった。

当時、前任者から引き継いだ契約タクシーで毎日移動していた。まじめなステファンとおちゃらけキャラのズボンコ。もう1人、その中間のような性格のドライバーがいたが、名前を思い出せない。約1年間、飛行機移動でない場所へは、彼らの運転で取材に行った。ジャパンマネーをコツコツ貯金したステファンはタクシーをベンツに買い替える計画を立てていた。ズボンコはトランクルームに隠してあった山のようなエロ本をうれしそうに見せてきた。ステファンはそれまで接していたクロアチア人のイメージどおり。ズボンコの存在が、さらに親近感を持たせてくれた。

クロアチアでのシーズン終盤、相変わらずレギュラー奪取に苦戦していたカズはインタビューで「僕はね、カズでいることが楽しいんですよ」と言った。W杯フランス大会の代表落選。ヴェルディ川崎からの戦力外。逆境に次ぐ逆境の中でも、そう言ってのけたことに感銘を受けた。ザグレブの昼下がり、その部分だけ急に敬語になって語ったカズの姿は、私にとってはクロアチアという国を象徴する一風景として、記憶に刻まれている。そのシーズンの最終戦、背番号13は人生2度目のレッドカードで退場した。翌年は、背番号11への変更が決まっていたにもかかわらず、急転、オフに戦力外となった。ベンツのカタログを眺めていたステファンはショックだっただろうか。ズボンコはエロ本を控えてるかな? 後日しばらくたってからだが、そんなことも思った。

日本はW杯で再びクロアチアと対戦する。優しい人がいて、おいしい食べ物があって、取材対象を心から尊敬できる経験をさせてくれた国。カズと過ごした2カ月間のおかげで、他の人の何倍も楽しめそうな気がする。【98年サッカー担当=竹内智信】