瀬古利彦(31=エスビー食品)が、ソウル五輪のマラソン3人目の代表に選ばれた。日本陸上競技連盟は16日午後6時15分から、東京・渋谷の岸記念体育会館で強化委員会(小掛照二委員長)を開き、懸案の男女マラソンの「第3の座」に、瀬古と浅井えり子(28=日本電気ホームエレクトロニクス)を選出した。19日の理事会で正式決定する。瀬古にとっては3回連続の代表。3年前に急逝した故中村清監督との「ソウルで大輪を」の約束へ、全力を尽くすことになった。工藤一良(27=日産自動車)は補欠となった。

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瀬古自身が「候補内定」の正式連絡を受けたのは、午後8時6分、東京・中央区兜町のエスビー食品株式会社控室だった。グレーの背広、赤のネクタイで正装した瀬古は、同ビル6階で急きょ設定された記者会見場にエスビー食品小林尚一スポーツ推進局長とともに姿を見せ、同8時59分、ひと呼吸置いてからこう切り出した。

「今夜8時すぎ、陸連からソウル五輪代表候補として選ばれたと電話で連絡があり、強化委員会には本当にありがとうございましたと言いました」。精かんな顔つきは、笑みこそ浮かべなかったが、自ら「やはりホッとしました」と、思わず本音が出た。

もっとも、すでにびわ湖マラソンのゴール直後に「自分でも納得のいくレースができたと思います」と言い切っており、「内定までのこの3日間、選ばれなかったら-ということは全く考えなかった」という。周囲からは、2時間12分41秒というタイムの印象の悪さから「年齢的な限界では?」の声も出ていたが、「年齢的な限界などとは思っていない。まだまだ僕には、暑さを含めて研究の余地がたくさんあると思いました。僕は走ることしか能がありません。代表に正式決定したら、全力でソウルに頑張ります」と、正面を見つめる涼しげな目元に、エースの誇りがすっかり戻っていた。

この日はいつも通り午前6時半から30分、午後2時半からは報道陣のラッシュを避けるように東宮御所の周辺で約1時間、黙々と汗を流した。故中村監督夫人の道子さん(63)は、これを見ながら「びわ湖は完ぺきではなかった。あの失敗こそ、監督が私たちに与えてくれた最後のアドバイスだと、瀬古とも話し合いました。慢心せず、ソウルには完ぺきな体調と心構えで臨んでくれると思います」と、静かに話していた。

だれを代表とするかのこの日の会議は、いわば専門家の専門的な考察によるもので、是非を世論に問うものではない。しかし、これまでのいきさつは、明快ではなかった。理論上は自分がと思う半面、やはり人の子、「もしや」の恐怖に近い不安に襲われていたことも事実だろう。

これまで2度の代表に際しては、モスクワ(80年、不参加)、ロサンゼルス(84年、14位)とも福岡で優勝して、絶対の自信で臨んできた。今回はケガによる福岡不参加、びわ湖に2カ月間の練習で間に合わせねばならぬプレッシャー、そして走り終えてからの世論と、ランナーとして極限に近い逆境の中で、ようやくしがみついて獲得した代表の座だ。この苦しみが、瀬古の走りに、またひとつ大きな深みを加えたに違いない。ソウルは故中村監督の生まれ故郷。「瀬古よ、ソウルで大輪の花を咲かせよう」の生前の呼び掛けは、あるいは単なる“金メダル”を指しての大輪ではなく、この苦しみと、それで得る大きなプラスを指していたのかもしれない。【増島みどり】

 

◆瀬古に直撃

-代表決定まで2時間余りはどんな気持ちでした

瀬古 やはり不安だった。8時まで、落ち着いて待とうと思ったが……。(自宅での)食事も味がわからなかった。(妻と)どっちにしても一生懸命これからもやろうと話しました。

-決定の連絡を受けた時は

瀬古 本社に来て聞いたが、正直ホッとした(ニコッとほおが緩む)。正式に選ばれたら(中村)先生の夢を果たしたい。

-選考に、漏れることを考えたことは

瀬古 それは一度も考えなかった。

-工藤選手に対しては

瀬古 19日の理事会までは、まだ(代表に)決定していないので、コメントは差し控えたい。

-ソウル五輪目指しての今後の練習や計画は

瀬古 やはりまだ正式に決定していないので、まだ考えてない。ケガで休んだり、その後のスケジュールなど、小掛さんとも話したが、まだまだ研究することがある。びわ湖ではタイムも悪くいろいろ言われたが、反省してこれから検討していく。

-体力の衰えは感じますか

瀬古 自分としては感じていないが、いろいろな人と相談して暑さなど含め対策を考える。練習不足ではあった。

-メダルへの自信は

瀬古 決まるまではまだ言えないが、いつも言っているように、僕には走ることしかないので、満足いく競技生活を終えたい。

 

◆未知の魅力より実績

午後6時15分、岸記念体育会館の301会議室で、ソウル五輪マラソン男女各3人目の代表候補を決める陸連強化委員会企画室会議が始まった、出席者は小掛照二委員長以下、企画室委員10人と、帖佐寛章・陸連専務理事の計11人。JOCの五輪選手選考基準である「上位入賞が狙えるもの」と、3選考会(男子は福岡、東京、びわ湖)で上位に入ったものの2点から、瀬古、工藤、仙内勇(ダイエー、東京日本人1位)について小掛委員長を議長として討議された。

午後8時5分、会議を終えた小掛委員長は「男子は瀬古、女子は浅井」と発表。「男子は瀬古の駆け引きのうまさ、中山の積極性、新宅のトラックで鍛えたスピードで、三人三様の最強チームができた。3人のうち誰かに金メダルをとってほしい」と話した。会議は全員一致で瀬古に賛成。工藤はJOC選考基準「上位入賞可能選手」には力不足だとされた。

瀬古の後半のペースダウンについては松井科学委員長などのデータから、「体力的なものでなく、ケガの後で練習量が不足していた」(小掛委員長)と判断した。ソウルまでの強化計画は、今後検討されるが、瀬古については暑さ対策を重要視し、「恒例の欧州遠征をやめ、思い切った練習をさせる」と明かした。女子の浅井に関しては、やはりその実績を重視し、「チームを引っ張る力に期待する」(松井委員)とした。【荻島】

 

◆落選工藤は「陸連の指示に従います」

「仕方ありませんね」。工藤一良(27=日産自動車)の第一声は明るい声だったという。神奈川県平塚市で合宿中の工藤は15日に異例の40キロ走り込みを行い、この日は午前中に軽く走り、午後は入念なマッサージを受けに新宿に出向いた。その後、都内のホテルで待機、報道陣の前には姿を見せなかった、午後8時45分に宿舎に電話を入れ、白水監督から「結果」を聞いた。監督を通してのコメントは「陸連の指示に従います。当面はロンドン・マラソンに全力を注ぐ」という簡単なもの。そのサバサバとした口調に電話口の監督も「おまえ、いやにさめとるな」とからかったほどだ。そして詰め掛けた報道陣に「覚悟はできてたのでしょう。こうなればロンドン・マラソン(4月17日)で笑われない走りを、“工藤を選べばよかった”と言われるようなレースを。2時間10分30秒が目標です」と工藤の胸の内を代弁した。自ら唇をかみしめながら「反骨精神の強いやつだから、これをバネに“実績と経験”を積み重ね、次(バルセロナ五輪)はだれにも文句をつけられることなく行ってほしい」とつけ加えた。【岡田】

 

◆中山竹通の話

オリンピック選手の選考については、陸連が決定されることであり現役選手がコメントする立場にはないと思います。瀬古さん、新宅さんとも、良きライバルとして、ソウルでは持てる力を十分に出し、お互いに競い合い、オリンピック選手として恥ずかしくない、悔いのないレースをしたい。

 

◆旭化成陸上部・宗茂監督の話

僕は第三者的立場の人間なので、どうのこうの言うことは一つもありません。陸連が決定したことは一番正しいことだと思うので、それ以上のことは言えません。

 

◆旭化成・児玉泰介の話

いろいろあったが結果的には瀬古さんでよかったと思います。悪いけど工藤君が出ても仙内君が出ても、参加するだけで終わるかもしれない。だが、瀬古さんなら必ずやってくれるでしょう。私も尊敬している人なので、みんなの分、頑張って欲しいです。

 

◆ソウル五輪男子マラソン結末

1988年10月2日号砲。金メダルが有望視された日本勢だったが、中山竹通の4位(2時間11分05秒)が最高。瀬古利彦は2時間13分41秒で9位、新宅永灯至は2時間15分42秒の17位に終わった。優勝はイタリアのジェリンド・ボルディンで2時間10分32秒。4位中山は「30キロで出ようと考えたが、リズムに乗れないのでやめた。飛び出せば抜かれると思った。1位でなければ2位もビリも同じ。悔いが残る」。瀬古は「(引退をほのめかし)これからは後輩の指導もしたい。自分がこれ以上伸びることはもうないですからね(翌日に引退は否定)」。新宅は「練習は自分ではやってきたつもりですし、悔いはありません。でも、ひと桁の順位を狙ってたんですけど・・・」。