ダークホースがパリへの道を切り開いた。

小山直城(27=ホンダ)が大混戦のレースを制し、2時間8分57秒で優勝。来夏のパリ五輪代表に内定した。残り3キロからスパートをかけ、2位の赤崎暁(25=九電工)、3位の大迫傑(ナイキ)らを振り切った。19年の前回大会で元ホンダ設楽悠太(現西鉄)の練習パートナーだった男が躍動。初の五輪舞台で8位入賞を目指す。

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小山は激しく先頭が入れ替わる39キロ手前で、ギアを上げた。登り坂で集団の動きが鈍くなった瞬間。「一気にいこう」と駆け上がった。残り2キロで後続との差は約10秒。「いける!」と優勝を確信した。右手を突き上げ、笑顔でフィニッシュへ。「2位以内を目標にする中で優勝できた」と誇らしげだった。

気温14・5度と肌寒く、大雨が降りしきるレース。日本記録保持者の鈴木健吾や8月の世界選手権代表の其田健也が途中棄権する中、第2集団で余力を残していた。「注目されていないので仕掛けやすい」。余裕もあり、スパートが決まった。

同郷のスターを追いかけてきた。マラソンの元日本記録保持者の設楽は、同じ埼玉出身の5学年先輩。高校3年時に全国都道府県対抗男子駅伝で4区区間賞をつかんだ時、3区が設楽だった。「突き抜けた走り」に憧れて、東農大を経て19年にホンダでチームメートに。同7月から設楽の練習パートナーも務め、MGCでは沿道でサポートした。

当初は「質が高くて、逆に参考にならない。(自分は)五輪は無理」と諦め気味だったが、同時に先輩のレベルが基準となった。まずは1万メートル27分台を目指し、スピードを強化。小川智監督は「愚直に練習を積み重ねていた」と振り返る。トレーニングを忠実にこなし、21年に27分55秒16をマーク。信頼が深まり、練習の強度を小山自身に委ねるようになった。走力はもちろん、判断力も育まれ「クレバーな選手」と指揮官も認める存在へと成長した。

22年3月からマラソンを始め、この日が5レース目。培ってきた力は39キロ手前でのスパートに表れた。レース前は「40キロ手前まで動かない」プランだったが、差を広げるためにはスパートの距離を確保する必要があると自己判断。とっさに仕掛けてみせた。ただ、小山はさらに上を見る。前回のMGCで、設楽が序盤で飛び出したシーンと重ね「自分もああいう走りがしたいが、まだ力がなかった」と守りに入った前半を省みた。

五輪の目標は8位入賞。「自覚を持って走らないと」と引き締めるが、サラリと言った。「五輪は通過点」。練習パートナーから大舞台の主役へ。一気に突き抜けていく。【藤塚大輔】

◆小山直城(こやま・なおき)1996年(平8)5月12日、埼玉県日高市生まれ。高麗川中で陸上競技を始め、松山高、東農大を経て19年にホンダ入社。東農大2年時に関東学生連合で4区区間10位相当。23年全日本実業団対抗駅伝競走大会は4区区間3位。マラソンの自己記録は2時間7分40秒。身長1メートル70センチ。