「目の前で中学新記録を出されて。ちょっと追いつけないなあ、とあきらめかけた」

 10年8月22日、鳥取コカ・コーラウエストパーク陸上競技場。中3で14歳の桐生は男子200メートル決勝に臨んだ。コーナーを出ると左前に背中が見えた。伊豆市立修繕寺中3の日吉克美(現中大)に置いていかれた。日吉のタイムは今も残る破格の中学記録21秒18(+1・8メートル)、桐生は21秒61で2位。初の全国大会で完膚なきまでにたたきのめされた。

 彦根市立南中時代の恩師、億田明彦教諭(49)はそのレースをよく記憶している。「100メートルを走ってコーナーを出たところでピュッと(日吉に)出られた。テレビに映っている桐生の顔を見たら『あ』という顔になっていた。力が抜けたような。『これ、やられたな、自分より速いヤツがいる』という顔だった」。

 同大会ではその後、400メートルリレーの準決勝で左太ももを肉離れ。10秒91で予選全体の1位だった100メートル決勝は欠場した。だが同リレー決勝は出た。走れる状態ではなかった。だがアンカーとして最後は歩くようにでフィニッシュラインを目指した。桐生は「記念として皆で賞状をもらおうと思って。ぼろぼろで8位に終わりました。ゴール後は歩けなかった」。

 初の全国大会はほろ苦いものだった。だが2位に終わった200メートルのレースが京都・洛南高の柴田博之監督の目にとまった。「非常に足の回転が速かった」。そして桐生の父、康夫さんも「あの負けがよかった。あれがなければ、てんぐになっていたかも」と振り返る。億田教諭も「200メートル2位の悔しさが高校の頑張りの原動力。『いつか勝ってやるぞ』という感じだった」。

 中学3年間を指導した億田教諭は、桐生の特長について足首の硬さを挙げる。

 「桐生は中2のころからピッチが上がってきた。蹴る動作が速い。桐生は足首が硬い生徒だった。ストレッチで両かかとをつけて、腰を落とすとバランスを崩す。後ろに倒れる。足首がグニャッとならずに、余計な力が逃げないから足の戻りが速いのかなと思う」。

 中学では全国タイトルはとれなかった。桐生は柴田監督の誘いで、京都・洛南高に進学する。陸上部の文集には「いつか日の丸を背負って、世界の舞台へ挑戦する選手になりたい。壮大なる夢を持ち続けたい」としるした。【益田一弘】

 ◆益田一弘(ますだ・かずひろ)広島市出身、00年入社の41歳。大学時代はボクシング部。陸上担当として初めて見た男子100メートルが13年4月、織田記念国際の10秒01。昨年リオ五輪は男子400メートルリレー銀メダルなどを取材。