女子フリーでショートプログラム(SP)2位の宮原知子(19=関大)がフリートップの147・16点を記録し、合計220・39点の4連覇で18年平昌(ピョンチャン)五輪代表を確定させた。女子の4連覇以上は06~09年に4連覇した浅田真央以来で、8人目の快挙。1月に判明した左股関節の疲労骨折から11月に実戦復帰し、エースが女子1枠目で初の五輪切符をつかんだ。2位は合計213・51点の坂本花織(17=シスメックス)で、3位は合計208・03点の紀平梨花(15=関大KFSC)。五輪代表は24日に正式発表される。

 総立ちの拍手を受けながら、宮原が両拳を頭上に掲げた。「今回は今までと違って、本当に心の底からガッツポーズが出ました」。その瞬間、浜田コーチは思わずむせび泣いていた。抱き合った2人が得た平昌行きの切符。4連覇のエースも笑顔が涙に変わり「自分のスケート人生で大きな1歩を踏み出せた」と湧き上がる達成感をかみしめた。

 本格再開から2カ月のジャンプは、1つの回転不足のみにまとめた。ライバルとの差は表現やスケーティング。演技構成点は5項目全てで10点満点の9点台を記録。伸びの大きい滑りで、国際スケート連盟非公認ながら自身初の220点超えをたたき出した。浜田コーチは「努力は報われる。本当によく辛抱した」と、リハビリ期間中に磨き上げた土台をたたえた。

 全ては昨年12月5日、フランスでのGPファイナル出発日に始まった。最終調整で発生した左股関節の痛み。過去の捻挫、打撲は「自然となくなっていました」と笑う女王の顔が、一気に曇った。試合を想定した練習が始まり、コーチに「ちょっとおかしいです」と伝えた。日常生活に支障を来す痛みを抱えながら、全日本選手権を3連覇した。

 年が明け疲労骨折が判明し、3月の世界選手権を欠場。代役の本郷には「ほんまにごめん。でも、頑張ってきて」とメールし、人生で初めて約1カ月間、氷から離れた。だが、4月下旬にリンクへ戻っても、別の箇所に痛みが走る。ピークを今大会に定める計画ながら、ジャンプの本格再開は10月にずれ込んだ。焦りが募る時期、浜田コーチから「5年後(の22年北京五輪)に向けて練習しましょう」と声をかけられた。その親心が「自分の力になりました」と楽にしてくれた。

 その上で腹の中では「優勝しか(五輪が)確実な道はない。優勝しないわけにはいかない」と強く思い続けた。何度も視界から消えかけた五輪が現実になり「想像がつかないけれど、すごくワクワクしています」。氷の神様は、めげない宮原にほほ笑んだ。【松本航】

 ◆宮原知子(みやはら・さとこ)1998年(平10)3月26日、京都府生まれ。4~7歳は米ヒューストンで暮らし、6歳で競技を始める。ジュニア時代の12年全日本選手権で3位に入り、シニア1年目の13年NHK杯でGPデビュー。初出場の15年世界選手権で2位となり、GPファイナルは15、16年と2年連続2位。218・33点の自己ベストは国際スケート連盟公認大会で女子世界歴代5位。151センチ。