20年東京五輪セーリング競技の会場である江の島ヨットハーバー沖で、470級の世界選手権が8月4日に開幕する。

日本男女ともに表彰台に乗り、日本ペア最上位となれば、東京五輪代表に内定する。その世界選手権を前に、セーリングを3回にわたって連載する。第2回は昨年の同選手権で、日本女子初の金メダルを獲得した吉田愛(38)、吉岡美帆(28=ともにベネッセ)組の「理想のペアで悲願の五輪のメダルへ」だ。

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ロンドン五輪が終わった12年の12月だった。日本セーリング連盟が主催した女子だけの試乗会で、吉田は1人の選手に目を留めた。口数は少なかったが、ひときわ大きい体格に「一緒に練習しないか」と声をかけた。それが身長177センチの吉岡だった。

吉岡は当時、立命大の4年。翌年に卒業を控え、競技からは引退するつもりだった。ただ、その年の全日本学生で実力を発揮できず、不完全燃焼で学生を終えていた。そこに、あこがれの吉田から声がかかった。「信じられなかった。五輪など縁がないと思っていた」。

ただ、あまりにも経験が違いすぎた。吉田は6歳からセーリングに親しみ、2度の五輪に出場。対する吉岡は、芦屋高から競技を始めたが、目立った成績は挙げていない。それでも、ペアを組むならコンビネーションがすべてだ。吉田の厳しい指導が始まった。

性格は正反対。吉田が「思ったことは何でも言うタイプ」。しかし、吉岡はおっとり系で、口数も少なかった。リオ五輪まで「自分の思っていること、意見を言えなかった」。吉田の高い要求に応えられず、どんどん無口になり、2人の関係がぎくしゃくしたこともあった。

それでも何とかリオデジャネイロ五輪に間に合わせ、5位に入賞した。吉岡は、いまだにふと思い出す。リオ五輪470級女子の初日だった。曇天で不安定な風の中、吉田、吉岡組は首位に立った。しかし「いつもは全然ミスしないような場所で落水してしまった」。初めての五輪で緊張が極限に達した自分を今でも忘れられないという。

吉田はリオ五輪で引退を考えていた。しかし、13年9月に20年の東京五輪が決定。セーリング競技の会場は、自身の本拠地、江の島に決まった。「私が選手として出るしかない」。リオ五輪後、すぐに東京へ向けて動きだした。ただ、その前に出産が控えていた。

吉田はリオ五輪後、産休に入った。すぐに復帰できるようにと、妊娠中から国立スポーツ科学センターの女性アスリート支援プログラムを受講し、可能な限りのトレーニングを惜しまなかった。17年6月に長男琉良(るい)くんが生まれた。

その間、吉岡は所属先のベネッセでOLをやり、フィリピンに1カ月間、語学留学もした。外国選手とペアを組み練習し、外国人コーチの指導も受けた。「1年間、ヨットから少し離れて、いろんなことを学んだのが自信になった」。引っ込み思案の性格は一変した。

17年9月に、吉田が復帰し、ペアは再会した。「すごく成長していて本当に驚いた」。自分から能動的に動く吉岡を見て、吉田は目を細めた。復帰戦のW杯蒲郡大会で2位に入り、上々の滑り出し。そして、18年世界選手権では日本女子初の金メダルを獲得した。

今では、吉田が「私の高い要求にしっかり応えて、頑張ってついてこようとする。理想のパートナー」と言うほどのコンビに仕上がった。吉岡も「私が頑張らないと、このチームはレベルが上がらない」と、がむしゃらに体を投げ出した。

もちろん「代表になることが今の最大の目標」(吉岡)だが、その先には「目標はオリンピックの金メダルというのを忘れないでほしい」(吉田)。そのためにも、世界選手権の表彰台で、東京への切符を勝ち取る。

◆吉田愛(よしだ・あい)1980年(昭55)11月5日、八王子市生まれ。旧姓近藤。小1でヨットを始め、08年に鎌田奈緒子と組んだ「コンカマ」で世界ランキング1位。北京、ロンドン、リオと五輪3大会連続代表。ポジションはスキッパー。日大卒。161センチ、58キロ。

◆吉岡美帆(よしおか・みほ)1990年(平2)8月27日、広島県生まれ。芦屋高でヨットを始め、立命館大を経て13年に吉田愛とペアを結成。同年世界選手権初出場で、10位に食い込んだ。16年リオ五輪で五輪初出場で5位入賞。ポジションはクルー。177センチ、68キロ。